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父の考えを改めたい

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私がなにかミスをした際に、父が叱ることがあります。
しかし、その際に自分ができていないのに、こちらにはできるようにしろと、言う事があります。

父の言っていることに思うことがあり発言すると、言い訳だと言ったり、無視して話を進めることがあります。
家族のイメージでも、父は自分は良くて人はダメという考えを持っているのだと思っています。

最近では、父に私が叱られている時に、私かここはどうなの?などと聞きかえりたりしていると、父の中で私は、とても面倒くさい存在になったみたいです。

父は妹が多く昔からなにか都合が悪かったら上からものを言って、押さえつけるというのが普通だったのでは?と母と私の中では考えております。

さて、父の考えを変えたいと思い質問させていただいたのですがその変えたい考えというのが「自分は良くて人はダメ」という考えを変えたいと思っております。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

感情論や圧力を無力化させて建設的な話し合いを

たとえば某国のような独裁者気質の暴力・パワハラ肯定の国家であれば、国民の反発を人間性の程度の低いトップが潰してしまうものです。
理想ではありますが、独裁国家ではなく賢明で聡明なトップが君臨する人道的な国であれば暴力やパワハラという手段にはでません。国民とトップが対等で、どっちもおかしなことをしないようになる。家庭も同じです。
本当にみんなが納得する理想のおとうちゃん・おかあちゃんであれば、家族みんなが安心。
私も子供には時々強く当たってしまいますが、それでも詫びることは詫びます。
怒るといっても、善導ですから「こうなってほしい」「こうなったら最悪よろしくないから」という理由で親は子供のためを思って強く言うこともあるでしょう。
あなたも愛情、導きとして受け止めて善意で受け止め、全員が善意で善導されるように心の中で善玉菌MPを高めに。
最近では勧善懲悪もののドラマや時代劇は視聴率の関係で放送されなくなりましたが、人道主義・ひとのみちにのっとった名裁判、名さばきは皆を納得させるものでした。
よって、お父ちゃんが圧力や感情であなたを押しつぶして論理的な会話をすすめることをとめようとするのであれば、文章にするとよいでしょう。
たとえば
・僕はおとうさんから嫌われたくはないし、ただむやみに反抗しているわけではありません。素直な子で居たいと思っています。
・お父さんにおねがいしたいことは怒る時に怖い声をあげたり、厳しい言い方をしないでほしい。(会社で疲れている時に、お願いしてしまうのはごめんなさい。いつも僕たちの為につらい会社ではたらいてくれてありがとう。感謝しています。)
・お母さんのことを大事に思ってくれるのであれば、お母さんにも圧力をかけるような言い方をしないで結婚当初の時のようにお母さんを大事に思って優しい態度で接してほしい。
C自分だけはいいけど僕たちだけがダメという理由がわからないので理由をわかるように説明してほしい。今はネットもあるので、情報はそれなりに入ります。僕がそれをやりたい理由は、今の日本を見ているとずるい人が大人しい日本人をつぶしてしまっているので、僕としては「あれダメこれダメ教育」でイイ子ちゃんのままだと社会で狡猾な人の悪意にも潰されてしまう可能性もあるので別に犯罪や悪いことをしようとしているわけではないので◎◎に関してはある程度は認めてほしいです。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お速い回答ありがとうございます。
父が興奮している時には、無理に話そうとせず、落ち着いてから話そうと思います。

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