仏教における転生の考え方について
仏教における転生のシステムについて質問です
死後、魂は一度クラウド上にアップロードされ、統合された魂から一部が来世へダウンロードされる
クラウド上の魂は、泥水の入ったバケツのような状態で、そこからコップ一杯分の泥水をすくったのが今世
今世で良い行いをして泥水を浄化していって、死後、浄化できるだけ浄化した魂をバケツに戻す
悪行は、水をより汚くして戻してしまう(徳と業システム)
バケツの泥水を綺麗にして次のステップに行くのが目的(次の階級に上がる? 解脱するための準備?)
という認識を持ってるのですが、これは正しいのでしょうか?
宗派によって異なるかとは思いますが、よろしくお願いいたします
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私はその解釈は仏教的に正しいと思いません。
ただ、現世で良い行いをすれば現世と来世で良い報いを受けるという点については正しいと思います。
ですから、悪いことをしないように、良いことをするように現世をお過ごしくださいね。
きっと現世と来世で良い結果を迎えることでしょう。
如来蔵・仏性思想と釈尊の教えの違い
あなたが想定しておられるのは、仏教でいえば如来蔵・仏性思想に近いような気がします。もともと仏教にはなく、仏教以外のたいていの宗教にある教えというか感覚です。現世と来世?に分け、現世では不完全な代わりに完全を目指して修行、死後は来世?に戻って、ちょっとぬくぬくとして、また頑張るために現世に生まれる……ギリシャの理想世界と現実世界の往復、インドや中国や日本の先祖界とこの世の往復、などなど、言葉は少々違いますが、世界中の人々が、何となくこうではないかと思ってしまうようです。仏教にも入り込みました。
釈尊は、クラウドとかあの世とか言われる世界をも分析し、天界にさえ段階があること、それも輪廻の世界だからまたそこで死んで何かに生まれ変わらないといけないこと、ついでに、人間界以下の世界にもいろいろ段階があり、そこに生まれ変わる者もいること、そしてそれらが全部輪廻の連続で、人間界で心を浄化し尽くしたら、解脱し、死後はクラウドにも天界にも生まれず、輪廻双六を終了できることを解き明かしました。
クラウドや天界や如来蔵などは、立派な高次元の生命が集う良い世界観で、そこに行くにも徳を積む必要があり、多くの宗教がそういうものを説き、間違いとは言えず善い教えなのですが、あくまでもまだ輪廻の中だ、という認識を、釈尊の仏教は持っています。のちの大乗では忘れてしまいました。浄土の教えが浄土に往って何とかというのも、思想を分類すれば如来蔵のパターンですね。
アルボムッレ・スマナサーラ『死後はどうなるの?』角川文庫が、仏教の輪廻観と解脱観を簡単明瞭に説明しています。
「転生」は単なる「システム」ではない
こんにちは。
ご自分なりに専門知識を咀嚼して理解することは大切です。
しかし、かなりご自身に寄せすぎの理解している印象です。
そもそも、「転生のシステム」と書いていますが、まずここから違和感があります。「転生」は、迷いの業を重ねている自身への回顧や悔悟に基づいた、行く末への不安を伴う価値観です。「システム」という無機質なものではありません。
従って、「クラウド」「アップロード」も同様です。
あなたは、「システム」という仕組みを上記で説明しようとしています。
しかし、あなたは自分自身の日々重ねている業について、どう仏様から反省的に気づかされているのですか。また、自分の業の積み重ねにどんな行く末を想像しているのですか。その点を抜きにした「転生」の説明は、少なくとも仏教の説明にはなりえません。