hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

禅宗のお坊さんに質問です。

回答数回答 1
有り難し有り難し 11

質問1
思考を挟まず「ただ感じるまま」でいる状態、つまり「その様であるものはその様である」という絶対安心の境地において、六根の「意」に対応する、リアルタイムで湧き流れるこの「法(思考・想像)」すらも「ただその様であるだけ」という認識なのですか?
質問2
禅宗では「自他の区別分別が無くなる」系の悟りエピソードをよく聞きますが、これはあくまで禅定が深まった状態なのではなく、悟りが完成した際に起こる心理的または精神的体験であり、まさにそのような体験・感覚こそが「悟りの本質」であり「悟りそのもの」であり「悟りの境地の証左」でもあるという認識でよろしいでしょうか?

御回答よろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こんな感じで

禅宗のお坊さんです。
問1
思考を挟まず「ただ感じるまま」でいる状態、つまり「その様であるものはその様である」という絶対安心の境地において、六根の「意」に対応する、リアルタイムで湧き流れるこの「法(思考・想像)」すらも「ただその様であるだけ」という認識なのですか?

答え1
意も目や耳と同じです。思えるという働きがあるというだけ。
物事に触れたときに、熱いと感じたり、時にはイラっとするとき、言語化する前の様子があるでしょ。しかし、それを握らない追わない手を付けないということです。そのうち消えるでしょ。

質問2
禅宗では「自他の区別分別が無くなる」系の悟りエピソードをよく聞きますが、これはあくまで禅定が深まった状態なのではなく、悟りが完成した際に起こる心理的または精神的体験であり、まさにそのような体験・感覚こそが「悟りの本質」であり「悟りそのもの」であり「悟りの境地の証左」でもあるという認識でよろしいでしょうか?

答え2
あなたも、いつもそうなっているはずです。例えば救急車の音が聞こえた時、聞いている人の存在も一切なく音がそこにあればそのように間髪入れず聞こえると思います。そういう様子に自分も他人もないはずです。
物を見ていてもどっちが先でこちらから見ているとか、あちらが見せているとかなく、眼を開ければダイレクトに自他無くそれそのものが自分自身の様子として存在しているはずです。
「そこで自分が見ている」という理解を通したものの見方をする癖がついてしまっているからそれをやめるということです。
これから悟るのではなく、すでに悟っている。探す必要もないということです。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

邦元さん、御回答ありがとうございます。
頭で理解していただけなのか実感で確かめられていたのか、何だかよくわからなくなりました笑
精進いたします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ