禅宗のお坊さんに質問です。
質問1
思考を挟まず「ただ感じるまま」でいる状態、つまり「その様であるものはその様である」という絶対安心の境地において、六根の「意」に対応する、リアルタイムで湧き流れるこの「法(思考・想像)」すらも「ただその様であるだけ」という認識なのですか?
質問2
禅宗では「自他の区別分別が無くなる」系の悟りエピソードをよく聞きますが、これはあくまで禅定が深まった状態なのではなく、悟りが完成した際に起こる心理的または精神的体験であり、まさにそのような体験・感覚こそが「悟りの本質」であり「悟りそのもの」であり「悟りの境地の証左」でもあるという認識でよろしいでしょうか?
御回答よろしくお願いします。
自分の納得がいくまで、物事や行いに対してこだわってしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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こんな感じで
禅宗のお坊さんです。
問1
思考を挟まず「ただ感じるまま」でいる状態、つまり「その様であるものはその様である」という絶対安心の境地において、六根の「意」に対応する、リアルタイムで湧き流れるこの「法(思考・想像)」すらも「ただその様であるだけ」という認識なのですか?
答え1
意も目や耳と同じです。思えるという働きがあるというだけ。
物事に触れたときに、熱いと感じたり、時にはイラっとするとき、言語化する前の様子があるでしょ。しかし、それを握らない追わない手を付けないということです。そのうち消えるでしょ。
質問2
禅宗では「自他の区別分別が無くなる」系の悟りエピソードをよく聞きますが、これはあくまで禅定が深まった状態なのではなく、悟りが完成した際に起こる心理的または精神的体験であり、まさにそのような体験・感覚こそが「悟りの本質」であり「悟りそのもの」であり「悟りの境地の証左」でもあるという認識でよろしいでしょうか?
答え2
あなたも、いつもそうなっているはずです。例えば救急車の音が聞こえた時、聞いている人の存在も一切なく音がそこにあればそのように間髪入れず聞こえると思います。そういう様子に自分も他人もないはずです。
物を見ていてもどっちが先でこちらから見ているとか、あちらが見せているとかなく、眼を開ければダイレクトに自他無くそれそのものが自分自身の様子として存在しているはずです。
「そこで自分が見ている」という理解を通したものの見方をする癖がついてしまっているからそれをやめるということです。
これから悟るのではなく、すでに悟っている。探す必要もないということです。
質問者からのお礼
邦元さん、御回答ありがとうございます。
頭で理解していただけなのか実感で確かめられていたのか、何だかよくわからなくなりました笑
精進いたします。