過去に犯した罪をずっと引きずっています
中学生の頃、友達の一人に悪意のある行為をして、酷く傷つけてしまいました。
友達みんなに怒られ、本人からは絶交を言い渡されました。
僕は結局、まともに謝れないまま卒業してしまいました。
学校に関係無い場所で起こした事だったので先生などの介入も無かった事、また丁度受験期で余裕が無かったというのは言い訳です。
下らないプライドのせいで自分が悪いと認められなかったんです。
高校に入って新生活が落ち着いてきた頃、やっと罪悪感が芽生えてきて、それから先はまともに高校生活を送れなくなりました。一時期は不登校ですらありました。
最近は再びの受験のために何とか学校に通っていましたが、そんな時また高校のクラスメートとトラブルを起こしてしまいました。
それ自体はあの時ほど酷くはない、自分も悪ければ相手も悪いと認められるような事件でしたが、これがきっかけで最初にお話したあの時の事を鮮明に思い出してしまい、罪悪感を抱えていたにも関わらず再びトラブルを起こしてしまった自分が恐ろしくなって、ひどく思い悩むようになってしまいました。
志望先の学校はとても良いところで、でもだからこそ罪を犯した自分がそんな輝かしい生活を手にするのも嫌だし、何より新生活でもまた同じことを繰り返すんじゃないかっていうのが一番怖くて、受験する事はもう決まってしまったけど正直落ちたいとすら思ってます。
それに3年経っているとはいえあちらのトラウマが癒えているなんて考えられなくて、何かのきっかけでフラッシュバックが起きたらと考えると、それも怖くてたまらないんです。
これは自分の保身のためかもしれません。そういうところもまた罪悪感の元になってます。
絶交を言い渡されたとはいえ元同級生ですし、有り難い事に当時の友人でまだ僕と繋がりを保ってくれている人もいます。
だから連絡を取ろうと思えば取れるけど、今更行っても許してもらえないのでは、迷惑になるだけではという気持ちが強くて行動に移せません。
逃避であるとは分かっています。
自分のしたことが許されないことであると理解しています。
でも、それでも自分の人生に希望を持ちたいんです。藁にも縋る思いで投稿させて下さい。
長文失礼しました。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
何を大切に生きていくのか
罪という言葉があります。
しかし罪というものはありません。一応相手を傷つけると心が痛むことを罪悪感と言います。しかし、罪悪感というものはありません。
何が言いたいかと言うと、リアルを見てということです。
あなたが悩んでいることの根っこはただの記憶です。そしてその記憶はすでにただの妄想であります。もう過ぎた話。形もないこと、3年も前の。
すでに仏の働きは赦しきってあなたの今の様子を与えてくれています。
それなのにあなたの脳の中の働きにより、許されないと決めつけ自らを苦しめているのです。
決して人を傷つけることは良くないことです。しかし、過ぎてしまった過去をどうにもできないのですから、これからできることをすればよい。
①謝れるチャンスがあるなら謝ればいい。
②すでに赦されている現実に目を向け、二度と周りの人を傷つけないと心に誓うことです。
全てはあなたの心もちしだい。どこを大切にするかということです。
過去の記憶という名のマボロシを握って生きていくのか。現実目の前のリアルという宝を大切にし、そちらに目を向けて生きていくのかということです。
現実は目の前の今あなたの体のある所で繰り広げられていることです。そしてその時っきりで終わり。もう跡形もなく消えている。「今」と声に出した瞬間に今は全く新しい今に代わっている。そういうものです。
大丈夫です。安心して今の生活に足をしっかりつけて生きていきましょう。
質問者からのお礼
お早い回答、有難うございます。御礼が遅れて申し訳ありません。
そうですね。謝れるのであれば謝った方が良いのは当然です。現実に目を向けさせて下さり、有難うございます。
僕はそうするにしてもまだ怖いことのある臆病者なので、みっともない事ですがまたハスノハにてご質問させて頂くかも知れません。
こんな僕でも受け入れてくれるお坊様に、そしてハスノハに感謝します。ありがとうございます。