私だって泣きたかった
現在、夫と子供と共に暮らしている者です。
ありがたいことに幸せな毎日を過ごしておりますが、心に引っかかったままになっていることがあり書かせていただきます。
5年前まで10年間契約社員として勤めた職場での出来事についてです。私の退職の理由は親のコネ入社の正社員に注意したところ、その親から正社員に契約社員が物申すとは何事だと圧力がかかり、契約期間満了の時期と重なり会社に見切りをつけ、大好きな仕事でしたが退職しました。
その職場では後輩の指導を任されることが何度かありましたが、なかなか覚えてもらえない、腰掛けなので仕事は適当にやりたい発言など様々な人が居ました。その中の何人かが私の言動を圧を感じたと辞めていきました。上司へ私には指導は難しいこと、また契約社員である私がやるべき仕事ではないこと、仕事が回らないこと、ことなど状況を度々相談していましたが、女性間のイザコザと扱われ何も対応してもらえず苦しい日々を過ごしていました。前の職場を辞める際上司からあなたの言うことは正論すぎて、辞めていった人達は反論ができなかったんだよ。と言われました。
私にも相手に対する発言や指導方法など改めなくてはいけないところがあったのでは、もっと違ったやり方があったのではないかと当時の自分の未熟さに深く反省をし、今の職に当たっています。
しかし、私だけが悪者なのか相手にも改めるところがあったのではないか。無責任に仕事を休んだり泣いたりそんなことが出来るのはよっぽど私なんかより強いのではないか、私だって仕事を投げ出したり休んだり泣いたりしたかったけれど、社会人として投げ出すことなんて出来ないし、涙を流すことも影でしかしなかった。被害者と声をあげた方がかわいそうと言われ、声をあげられなかった方が悪者と後ろ指をさされるのかと相手や会社、世間に対して悔しい思いも持っているのも事実です。
中には私を恨んでいる人もいると思います。また、私のせいで仕事を辞めたと言い回っている人もいるそうです。
その人達とどこかで会ってしまうのではないか、過去への反省と当時の自分自身の辛い思いとが交錯し心をどうしたらよいのかわかりません。
私はやはり悪者なのでしょうか。悪者として後ろ指をさされ生きていかなくてはいけないのでしょうか。悪者を妻や母親に持ってしまった家族にも申し訳ない気持ちでいっぱいです。
乱文失礼いたしました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私にも似たようなことがたくさんあります
相手のために、または何がしかの組織のためによかれと思って発言したこと、行動したことが裏目に出たことは私にも多々ありました。憎まれたりうとまれたりもしました。信念に基づいて行動したために、憎まれたり、恨まれたりしたこともありました。憎まれないようにしていたら、うまくいっていたかもしれないと後悔することもあります。潔白なのに悪者にされることもありますからね。
ですから、うまくやっていくことは必要なのだと思います。いらんことで足を引っ張られて損するのに疲れましたし。
ですから、あなたのおっしゃること、傷ついていらっしゃることは自分の身に引き当ててよく分かるんです。でも、だからといって、持って生まれた性分までは治らないと思います。また治す必要もないと思います。
無用な軋轢を避けたり、しなくていいことをして後で苦しむのを未然に防ぐ工夫はつねにしなけらばなりませんが、完全には性分まではかえられないでしょ。最終的には、自分の信念と心中するより仕方ないものだと思います。変わらないものは変わらないんです。自分が正しいと思ったこと貫こうとするのはよいことです。
ただ、私もよく以下のような助言を受けます。不要なことで信念を貫く必要はないし、同じ信念を貫くといっても言い方もやり方もあるでしょう、と。そうですよね。自分の側も進化しなきゃいけないところもあるはずですよね。なかなかうまくできないのですけど。でも、やっぱり年齢を重ねるごとに進化しなきゃいけないのだとも思います。
また、人間はどうやってみても他者から非難されたり、批判されたりされるものだとも思います。みんな言われているんです。だから、他人の言うことを過剰に気にするのはやめましょう。
正義の剣を捨て 善導の精神で相手と自分が共に高まる供養の精神
その時代時代で身を守る武器は変わるものです。
アメリカは銃社会ですが、日本では銃を持っていたらアウトです。
人を注意する武器は武器ではない方が良いのでしょう。誤解をされるからです。
その人にとって人間性が高まるよい助言であっても私が今からキョーレツな罵倒、バリゾーゴンで怒ったら人によってでしょうが、聴くべき話も聞く耳持たずに耳にフタ、ページをとじるでしょう。
おかしなことは正されるべきことです。
ですが、日本人は上手に沈黙する。
自分がそのことに関わると自分に危害が及ぶであろうから何もしない。スルー。
そうすることで世の中のおかしなことはそのまま継続されてしまいます。哀しいことです。
人は悪く言ってもその人は良くはならない。
「人のことを悪く言ってその人が良くなったためしはない」という言葉があります。相手を良くしようとする気持ちがあるのであれば、自分も良くならなければいけません。正義のカタナで人を切るなという教えがあります。
正義であっても人を傷つけたり、危害を及ぼせばそれは正義以上の害悪。
だから、その正義を正義たらしめるためには超えてはいけない一線があるのでしょう。
正義とは実は一種の危険思想の側面もあることを知っておきましょう。
歴史の中には正義の名目でひどい目にあわされた人たちは数多く存在いたします。
A国にとっての正義は他国のB国にとっては正義とは言えません。
A党にとっての正義は他党のB党にとっては正義とは言えません。
それでも人間には共通する正当なあるべきようというものはあるのです。
どんな理由があろうとも人の命を軽視してはいけないとか、自分がされて嫌なことは誰でもいやなことです。
よって、人をより良く導こうという精神があるのであれば、正しく正義を行うことです。それは正義の剣、カタナ、武器ではなく、相手をよからしむる利他、利行、布施の精神なのです。
どんな悪事をなす人も、その悪意悪心に向かわせた悲しい過去がある。
そこが弱点なのです。
その弱点を憐みの心でもってサポートしつつ、不足を補うように同じ立場で伝えてあげることでどちらも傷つくことはないのです。
供養とは自分も養われ、相手も養われる徳行です。
布施とは何も僧侶へのお布施のことではありません。
相手も喜ばしめ自分も楽しめるような言動を心がけるとよいでしょう。
あなたは悪者ではありません。