心から人を恨んでいます。どうしたら許すことができますか?
私には12歳離れた弟がいます。
弟とは異父きょうだいです。
弟の父親は、薬物で何度も捕まったり、お酒を飲んでは家で暴れて物を壊したりしていました。
根は優しくて良い人でした。
私がどんなに酷いことを言っても怒らず、お酒を飲んで暴れても、母や私を傷つけることはありませんでした。
しかし私は、それでもその人のことを恨んでいました。今も恨んでいます。
その人が今もどこかで日常を笑って過ごしているんだと思うと、怒りで涙が出てきます。
理由は、弟の妊娠や再婚を母が私に報告してくれなかったこと。自分達は傷つけられはしなくても、暴れている姿はとても恐怖で、今でも大きな物音や扉を激しくノックする音がトラウマだということ。薬物所持を通報出来なかった罪悪感。
だから私は、計画的に、その人と母親を離婚させてしまいました。その時、弟はまだ1歳にもなっていませんでした。
まだ小学生だった私は、弟の父親が写っている写真を、全て捨ててしまいました。
なので弟は、父親の顔さえ知りません。
母の意向で、弟には「父親は死んだ」と、伝えてあります。
弟は私と正反対の性格で、私には言えないようなことを言うことができます。
私には出来ないことが出来ます。
私は小さい頃に母親から育児放棄をされていたので、きちんと愛されている弟に嫉妬しています。
同時に、理解し合うことができなくて、話す度に怒りをおぼえます。
支離滅裂な上に長くなりまして申し訳ありません。
そんな過去があり、私は何度も、まだ母と弟の父親が離婚する前、母と弟とその父親を殺そうとしたことがあります。
弟の首を絞めようとしたり、睡眠薬を飲ませて刺そうとしたり……
もう離婚して、母と弟と3人で暮らし始めて7年ほどになります。
未だに弟の父親と、弟への恨みが消えません。弟の父親の住所も知っています。いつ殺してしまうか分かりません。
こんなにも人を恨んでいる自分が、1番大嫌いで、ずっと苦しいままです。
他にも家庭の苦しい事情は絶えません。
これ以上耐えられません。
でもまずは、どうしたら弟の父親、および弟への恨みや罪悪感を無くすことができますでしょうか?
こんなこと誰にも言うことができません。
ご回答をお待ちしております。よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
諦かにする (あきらかにする)
質問拝見しました
貴方の心の闇はどこから来ているのでしょうか?
愛情を注いでもらえなかった自分と、母からの愛情をもらう弟‥。
暴れる義父に恐怖する自分
薬物使用を通報できなかった自分
離婚するように仕向けた自分
色んな嫌な自分がいっぱいいて自分自身を押しつぶそうとしているのでしょうか?
絡まった糸のように自分の感情が分からなくなっているのではないでしょうか。
一度ほぐしてみましょうか。
タイトルの「諦」の字は諦めると言う字ですが、「全てをあきらかにする」と言う意味があります。
先ずは自分の感情の根源を探して見てください。
辛い事をいっぱい思い出さなければならないかも知れないし、途中で嫌になるかも知れませんが、投げ出さないでください。
法華経と言うお経の中には「辛くても一心に人生を進むひとには、仏様が寄り添って、道を示す」と諭されています。
だから辛くとも諦めないでください。まだ全ては諦めるほどあきらかにはなっていないし、仏様は寄り添っていてくださる。
全てが出尽くしたら、今度はどんなに嫌な自分でも
受け入れて下さい。
鎌倉時代の日蓮聖人という方は、
「苦をば苦と悟り、楽おば楽と開く。」
と示されている。
苦しみも楽しみも全部、自分自身。自分を構成している一部なんだ。と納得できたら、世界は変わらなくても、貴方の見える世界は変わって見えると思います。
そこまでいくのが本当に難しい。
私もその歩みの途中です。
私のお父さん、私の弟も幸せでありますように
ヒジリ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
殺したいとまで思われるほどの激しい恨みによるお怒り・・三大煩悩の一つ貪・瞋・痴の内の瞋、瞋恚(しんい)となり、まさに激しい業火となりかねず、最大限の注意が必要となります。
釈尊は、恨み・怨みは、耐え忍ぶことによるか、手放して無くすかにより、鎮めなければならないとお説きになられておられます。(詳しくには、感興の言葉・ウダーナヴァルガ・第14章・「憎しみ」を参照下さい)
仏教では、忍辱(にんにく)波羅蜜という修行の徳目がございますが、耐え忍ぶことも仏教では、大切な修養の一つとなります。瞋恚という激しい怒りによる悪業は、己自身を地獄の業火で焼いてしまうようなものとなります。どうか、耐え忍ばれるか、手放して無いものとして頂けるかにて、誠にお願い申し上げたいところでございます。
もしも、耐え忍ぶことも、手放すこともまだまだ難しいとなりましたら、慈悲の滋養ということをお勧め申し上げたいと存じます。
「慈悲の瞑想」を是非、毎日、一日朝晩二回からでも実践されてみて下さいませ。
参照は、日本テーラワーダ仏教協会さんのものより、以下は少しアレンジしています。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように
私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように
私のお父さん、私の弟も幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
川口英俊 合掌
お若いので
十代から二十代前半は、まだまだギラギラした感情が激しいでしょう。
年齢とともに、人の性格はまるくなります。
また、日常生活で関わる世界が広がれば、思考の世界も広がります。
恨みがあるということは、何か被害を受けたからでしょう。
しかし、世界が広がれば、被害の負担感が小さくなり、恨みもちっぽけなものに感じられるかもしれません。
小遣い1000円の子供が100円取られたらかなり恨むでしょうけど、年収何百万の社会人になったら、100円取られた過去は許せるかもしれません。
恨みがある人には、余裕がないのかもしれませんね。
年齢を重ねて生活する世界が広がれば、ゆとりが出て恨みが小さくなるかも。
また、そうなるように、自分自身の怒りの煩悩とは戦い続けてください。
毒気深入
可哀想に。
毒気が心深くに入り優しい本心を失っている時、留め置かれた好良薬(こうろうやく)を自ら取って服したところ毒病がことごとく癒された。と法華経に説かれています。好良薬とは南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)のこと。
手を合わせ南無妙法蓮華経と声に出し唱えなさい。出せないときは小さな声で。それも許さない状況ならば心の中で何度も何度も必死に唱えなさい。
生活の合間を南無妙法蓮華経のお題目で埋めなさい。必ず救われますよ。