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出家について

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はじめまして、24才の禅大好きなものです。僧侶様の皆様に質問があります。

自分は昔からお寺が好きで、18才になると僧侶になりたいと思うようになりました。ですが知り合いもいなくなんの行動もおこさず生きてきました。ただ年をとるだけてます

出家について疑問点があります。
自分は学歴が中卒で刺青が体にあります。
そんな自分でも出家できますでしょうか?
自分は禅宗でと考えてます。

またお寺様に急に出家したいのですがどうしたらいいでしょうか?と質問したらやっぱり失礼ですよね?

お盆がちかずいてくるとよりいっそう僧侶になりたいと思う気持ちが強くなります。

本気で好きです。
今まで迷惑かけてきた方々ごめんなさい。
次は自分が助けるばんです。
半端な気持ちではありません!

すみません。文章力ないため意味の通じないところもあるかもしれませんがご了承ください。

それでは回答お待ちしております。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

おそれながら

禅門にて、修行道場の末席を汚したものであります。
大変、恐れながらではありますが、禅門での修行、というものは、
ただ淡々とした禅門における日常を務めることに他なりません。

また、禅門においては基本として様々に道具などを揃えねばならず、
その費用たるや驚くほどの金額に上るものであります。

入門しても、坐禅だけをしていれば済むものでもなく、掃除だけを
していればいいだけでもなく、先輩たちに怒鳴られながら、
けしかけられながら気付きの体験を得、そして得たものを捨て、
この繰り返しを続けるものであります。

ここにおいて、
禅門の日常というものは、御想像のものとはかなりかけ離れたもので
あることをまずおこころに抱いて頂く必要があります。

時に質素な食事もあれば、お米が大量に寄進されれば、
茶碗5杯の御飯をおよそ15分くらいで頂かねばならないなど、
小生の知る限り、道場をやめていったものたちの多くは、
修行道場というところへの(自分勝手な)理想と現実の違いに
(勝手に)失望してやめていくものばかりであります。

それでも願心があるというならば、お近くの禅宗のお寺様に、
どうすれば修行道場での修行が出来るかをお聞きになり、
まずはどこか小僧として半年ほど生活が出来るところで
修行道場の日常に入るまえの下準備をして頂くことを
おすすめ致します。

脅すつもりでお話ししたわけではありません。
むしろ、ご興味を持って頂けて光栄であります。
ただ、ご興味を持った方がたが、修行道場の在り方を
否定されることが多くあります。

それによって一番迷惑を蒙るのは、
最も修行をされている、その道場の老師と呼ばれる
最高責任者なのであります。日々我々よりも厳しい
修行をされている方のあしあとをたどることに
どれだけ専念できるか、これが「修行」であると思います。
どうか、ご検討のうえで禅門の戸を叩いて下さいませ。

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おきもち

まずはお寺通いから

(私は真言宗ですが、宗派の共通部分を考えて一般的にお答えさせて頂きますね)

禅宗で出家されたいとのことですが、

禅宗と言っても臨済宗、曹洞宗などがありますが、
あなたはどこか禅宗のお寺の主催する坐禅会などに参加された事はあるのでしょうか?

もし、坐禅会にも参加した事が無いとするのであれば、それは頭で僧侶というものを思い描いてあこがれているだけかもしれません。
実際にお寺に行って、お坊さんと話しをしてみる事です。
そして、実際に坐禅をしてみることです。

もしかしてあなたが考えているものとは随分違う感じがするかもしれません。

本で読んだり たまに参拝したり 人から聞いたりしただけでは解らない事の方が多いのではないでしょうか?

坐禅が出来るお寺をご自分で探して(ネットで検索すればいくつもの坐禅会が出て来ると思います)、兎に角そこへ通って坐禅をしてみる事をお進めします。
まずはそこからだと思います。
禅宗で出家するかどうかを本当に決めるのに数年は通う必要があるやもしれません。

もし、すでに随分とお寺に通って、坐禅もされているのでしたら、
私の誤解です。本当に申し訳有りません。御気分を害されたらお許しください。

もし、すでに坐禅に通っているお寺が有る場合は、その通っているお寺のご住職に相談してみると良いと思います。
随分と坐禅会に真面目に通って来られている方であれば、
そういった相談にも乗っていただける可能性があると思います。

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おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

編集中

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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