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二ーバーの祈り

回答数回答 1
有り難し有り難し 6

変えられるもの。変えられないもの。その線引きについての質問です。
仏教版の「二ーバーの祈り」を知りたいと思いました。
 
※二ーバーの祈り(大木英夫 訳)
 
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
 
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
 
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
 
(ここまで)  
 
そこに明確な線引きなど無い、と分かってはいるのですが…。
 
例えば、他人の感情・行動です。
原則として、変えることができない、と思います。
しかし、自分から働きかけることで、一部変えられる可能性もあります。
だからこそ、自分から働きかけて、相手が自分の思い通りにならないときに、苦しいんだと思います。。
 
ならば、変えることができるものは、「自分の感情と行動だけ」と捉えて、それ以外は、変えることができないものと、割り切るべきでしょうか。少しストイックすぎるようにも思えますが。。
 
漠然とした質問で恐れ入りますが、ぜひ皆様のお考えをお聞かせください。
 

2021年12月14日 19:18

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

有機的なものだと思います。

こんな捉え方もある、という程度で気軽によんで下さい。
 こんばんは。私も好きです、この言葉。カッコいいですよね。
 ただ、仏教ではもっと物事を流動的に捉えていると感じます。それは、「物事は縁起による」からです。つまり、「〇〇なもの」という固定的なものはなく、全てが「〜なこともある」という「状況に置かれている」だけ、というわけです。
 あなたの言う「他人の感情」などは、まさに縁の働きを示しているのではないでしょうか。
「変えることができるもの」は、「誰が?どんな状況で?」というのがついて回る問題ですよね。ただ、「自分が変えられる」可能性はあるとしても、「勇気」だけでは覚束ない気がします。
 一方、「石は水に沈む」というのは変わらない事柄です。これは「冷静に受け入れ」なければね。
 総じて、「そんなに単純じゃないと思います」というのが答えなのですが、「縁がすでに整っているのに、勇気を出せずに失うこともあるよ」ということと「冷静に状況を見なければ、疲れるよ」、これらには同意します。そして最後のが「知恵」ってのはよく分かりません。「ありのままに見る」だろうとは思うのだけれど、「冷静に」と被るのでイマイチです。

追記
「お礼」欄の書き込み、ありがとうございます。なるほど「線引」というか「識別する知恵」が肝なのですね。失礼しました。この文を改めて「キリスト教の、人を救うための言葉」として捉えると「神様の知恵wisdomがあれば、無駄な努力や苦しみから逃れられます(線引できます)。」ということだろうと思います。
 これ、仏教では「対象がどうであるか」より「自分の目が煩悩に曇っていないか」の問題になりますね。「自分の煩悩がなくなれば、相手が何者か(変えられるか否か)ちゃんと理解できる(線引できる)」という話です。
 いずれも、線引する主体の変化を前提とした話です。そこを取っ払って「実際的・安全」な線を考えるとすると、「自分自身すら全てを操ることはできない。操れるのは一部だけ」はいかがでしょうか。ただし、「神様の知恵もなく、縁の理解もなく、煩悩まみれである今のところは」です。
 でも、そこに立つと「他人が動いてくれた」は全て有り難い事になります。それはそれで幸せな生き方かも知れませんよ。

2021年12月15日 21:26
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有り難し
おきもち


一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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質問者からのお礼

ありがとうございました。
しかし、もう少し突っ込んだ回答が欲しかったのが本心です。
「自分の感情や行動」すら独立したものではなく、もちろん周囲からの影響を受けますから、関係性の中で有機的なものでありましょう。
それを理解した上で、変数と定数について、どこで線引くのが実際的とお考えか、という質問でした。
そもそもアナログな世界を、デジタルに見るのは限界があることは承知しております。
しかし、「有機的だから、総じてそんなに単純じゃない」で片づけるのは、やや解像度が低いように私には思われます。
質問の意図をもっと丁寧に書くべきだったと反省しています。
ありがとうございました。

ありがとうございました。(お礼が遅くなり失礼いたしました。。)
 
下記コメントが、今回の問いへの回答になるのかなと思いました。
「自分の煩悩がなくなれば、相手が何者か(変えられるか否か)ちゃんと理解できる(線引できる)」
 
ここを深堀ったお考えを是非伺いたかったです。例えば…
自分の煩悩から脱して相手を理解しようとすることが、変えられるか否かを線引きできることに、直接繋がるのでしょうか。
「煩悩で曇っていると線引きが鈍る」、は一見正しそうですが、本当にそうなのでしょうか。(たとえば相手を理解したい欲求が、むしろ理解度アップにつながり、線引きに寄与するなど)
ありのままに相手を見ることに加えて、人間理解のようなものを別途深める必要があるのでしょうか。
或いは、そもそも「主体から客体を意図的に変えようと働きかける試み」自体が仏教ではナンセンスと捉えられるのでしょうか。等々です。
 
「実際的・安全」な線以降の回答についてです。煩悩を減らす努力をしない場合の考え方をご提案頂いたかと思います。何度か読み返しましたが、少し理解が難しかったです。具体的には2つの疑問点がありまして、
1)「自分自身すら全てを操ることはできない。操れるのは一部だけ」は、縁の理解に基づいた考え方なのでは?と思いました。
2)「他人が動いてくれた」は全て有り難い事、にどう繋がるのか?
他人が操れる一部の行為≠他人が動いてくれた、と思いました。
縁の理解に基づけば、「他人が操れない行為」の一部+「他人が操れる一部の行為」の一部=他人が動いてくれた、になりそうと思いました。
 
他の方の問答を見ていると、具体的な相談が多いと思いました。特に抽象度の高い問題は、文字だけだと互いに真意を伝えるのが難しいのかもしれません。恐らく私の理解不足、認識齟齬も要因の一つだと思いました。より具体的な質問をさせて頂こうと思います。
 
少し不器用ゆえ、コメントでお気を悪くされたら申し訳ございません。
ありがとうございました。

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