八正道実践のアドバイス
本件急ぎませんので、お手すきの折にご確認頂けますと幸いです。
何卒よろしくお願い致します。
■質問
①得度前と比べて、八正道の実践が上達している実感はあるか
②八正道の実践における、具体的な行動例とは(心がけ以外)
③八正道を実践する上での「難しさ」と、その対処方法は何か
■仮説(想像です…)
①得度前と比べて、八正道の実践が上達している実感はあるか
・ご実感は「ある」のではないか
・筋トレと同じで、徐々に筋肉つき、サボると落ちるイメージか?
②八正道の実践における、具体的な行動例とは(心がけ以外)
【正見】仏教を勉強する、見分を広め固定観念に気付く、瞑想する等
【正思惟】モノや人間関係や思い込みの断捨離をする、慈悲の瞑想する、感謝日記かく、怒りは深呼吸する等
【正語】うそ、悪口、おべっか、無駄話NG。言葉は大切にする等
【正業】殺さない、盗まない、不倫・浮気しない、人に迷惑かけない、菜食試してみる等
【正命】仕事がんばる、規則正しい生活する等
【正精進】煩悩を誘発するものと距離を置く(スマホ、酒、繁華街etc.)、良い習慣は継続する(笑顔、気持ちいい挨拶、募金etc.)等
【正念】瞑想する(観察型)等
【正定】瞑想する(集中型)等
③八正道を実践する上での「難しさ」と、その対処方法は何か
・「正しさとは」で迷う⇒経典を参照したり、師匠に相談する 等?
■質問の背景
・四法印や四諦の理解が少しずつ進み、八正道に興味が出てきた
・しかし具体的に何をすれば良いか、すこし分かり辛い印象がある
・なので、稚拙ですが、いったん具体的な行動例を書き出してみたもの
・その他具体例があれば、是非アドバイス頂きたい(無数にある?)
・実践面での工夫や困難等、お坊様のご助言をぜひ頂きたいと思った
・また、そもそも上達(?)する性質のものか、気になっている
以上です。
いつもご回答頂き、有難うございます。
師走のお忙しいところ、重ねての質問で大変恐縮ですが、お手すきの折に、どうぞよろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
よく保つ。その心がけでいいのですよ。
拝読させていただきました。
「八正道」を継続するにはとても困難でもあります。
日本に伝わる大乗仏教では八正道を下敷きにした「六波羅蜜」を実践することが何よりも大切にしている行いになります。
八正道を実践、継続するには“よく保つ”心がけが何よりです。中道を歩むことに繋がるからであり、煩悩・欲を常に発する欲望の塊の生き物が人間です。であるからこそ、『かたよらない、こだわらない、とらわれない』という一切皆空であることを知覚認識していくことで、よく保つことにも成ります。
真言宗の般若心経には頭に仏説が付きます。これは何を意味しているのか?日本に伝わる般若心経は三蔵法師(玄奘)の作で有りますが、仏説とは仏(釈迦)が説いたから般若心経ではなく、仏の説いた教えの真髄とはということであり、「空を知ること」となります。空を知るとは中道を知ること、中道を知るとは八正道を知ることです。
常々、人の心を邪魔する五蓋があるので八正道を実践していく上では、とてつもなく自己との戦いです。テレビや携帯、都会にいては八正道の実践は、目の前に食事があるのに食べれないような感覚なのです。
八正道を完成させればさとりを開けるのではなく、阿羅漢位となれるのです。
険しい道ですが、応援してます。
私の仏教論をいいますと
「こだわらないことにこだわる」
これ即ち空なのであり、執着が離れる処方なりと説きます。
あまり参考にはなりませんが、他の僧侶さまたちからのご意見も参考にしてください。
合掌
七仏通誡偈
こんにちは。
八正道は、上達したり落ちたりする性質のものではないと思います。あえて言えばやればやるほど積み重なるものだと思います。私は「これは八正道のひとつにあたるからがんばろう」と思うような事や「八正道の実践は難しいものだ」などという感想を持つこともないですね。質問中「心がけ以外」と書かれていますが、心がけを持つことで行動として自然に湧き起こるものではないかと思います。
仏教の教えを実践してみたいと思っているようですので、質問からは外れてしまいますが八正道よりも「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」の方が実践しやすい(入り口として適している)と思います。私は仏教的な生き方の実践としては最終的に「七仏通誡偈」にいきつくのではないかとも思っています。 「鮒に始まり鮒に終わる」という格言がありますが、大げさな言い方ではありますが仏教は「七仏通誡偈にはじまり、七仏通誡偈におわる」と考えています。
「七仏通誡偈」とは
諸悪莫作(しょあくまくさ)
もろもろの悪い行いをしない(悪いことをしようと思っても、行う事ができない)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
もろもろの善い行いをする(善を行わずにはおられない気持ちになる)
自浄其意(じじょうごい)
そのような行動が心を清くする
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
是がの仏教の生き方だ
というものです。
昔の中国に鳥窠道林(ちょうかどうりん)というお坊さんがいて、ここの地域の長官である白居易(白楽天。詩人としても有名ですね)がたずねて来た時、白居易が鳥窠道林に「仏教の要とは何ですか?」と聞いたところ、「諸々の悪を行わず、善を行うことである」と答えたそうです。白居易は、「そんなことは三歳の子どもでも知っていますよ」と言いました。すると鳥窠道林は「確かに三歳の子どもでも知っている。しかし、八十年生きた老人であっても、この道理に沿って生きることは難しい」と答えた、という話は有名です。
善い行いをして、悪い行いができない、この行動こそが仏教の実践をする上で大切な事だと思います。
正定之因唯信心
ご質問ありがとうございます。
この切り口のご指摘ありがたいです。
得度前と比べて、八正道の実践が上達している実感はあるか
・ありますよ。でも上達というより道が整備された。凸凹道だったのが舗装道路された、電動車椅子に乗って歩むという感覚です。
②八正道の実践における、具体的な行動例とは(心がけ以外
()内は真宗教典の名前です。
ざっと八正道の記載があるかどうか調べたら、正定と正念について記載ありました。正信偈、教行信証は親鸞の著書です。
【正見】
【正思惟】
長い間考える五劫思惟(正信偈)
【正語】
【正業】
【正命】
【正精進】
【正念】
・念仏はすなはち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏がすなはち正念です(教行信証)
【正定】
・称名はすなわちもっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業(教行信証行巻)
・正定之因唯信心(正信偈)
③八正道を実践する上での「難しさ」と、その対処方法は何か
【難しさ】
・衆生救済の願いは、軽々しいことではない。如来の尊い力がなければ、どうしてこれを達成することができよう。そこで、仏力をお加えくださることを乞うのである。(往生論註)
・八正道ができたかどうかの評価を仏ではなく自分が評価するだけだと客観主義に欠ける
・言葉の定義を辿ることが必ずしも課題解決につながるわけではない。
【対処】
・自説と仏典を照らし合わせる
・休息や不実行を含めた取捨選択と手順を定める
・目利きスキルを磨く。
+++
お礼、ありがとうございます。
コンディション聞けてよかったです。
コンディション不良の今の状態からメジャーを目指すなら、リハビリトレーナーと回復に必要な栄養メニュー、心を射抜く味付けできる調理師、再起までの映像を制作してくれる代理店とシナリオライターが必要ですね。
ドーピングではないはずです。
理想はCPUとメモリの増強でしょうが、人間の器量にも限界がありますからね。そこが自力修行の限界という立場です。
お身体お大事になさってください。
ハスノハは味方で居ます。
+++
お返事ありがとうございます
補足をもうひとつ。
精神ケアについて、詰め込みすぎが原因の場合、何かしなきゃいけないという強迫観念を手放す。書かない、話さない、何もせず頭や心に余白をつくる。
という手もあります。
質問者からのお礼
法源さま
ご多用のところ、早速のご回答を有難うございました。
究極的なゴールは恐らく「こだわらないことにこだわることすらせず、結果こだわらない」ですね。
その境地に「八正道・六波羅蜜を心がける」程度で少しずつでも近づけるか心許なく、具体的な実践方法をお伺いした次第でした。(私は頭でっかちで、行動面が疎かになることがあるためです…)
「よく保つ、空、中道」についての気づきを頂き、有難うございました。
コメント頂き、先ずは「こだわらないことにこだわる」ことを意識する所からかな、と感じました。
誘惑が少ない環境に身を置くアプローチも当座は有効ですよね。
筋トレを例にとると、最初から身の丈に合わない重い重量でトレーニングせず、軽い(誘惑の少ない)重量(環境)でトレーニングする方が現実的で、効果的、ということなのでしょう。
具体的なトレーニング方法としては、おそらく継続的な瞑想が効果的との認識です。
そうですね、他の僧侶さまにもご意見頂けましたら、考えを深めて参ります!
この度はご回答、有難うございました!!!
光禪さま
ご教示頂き、ありがとうございました。
善悪の定義の問題は棚上げするとして、非常に分かりやすく力強い教えだと思います。
そして、3歳から80歳へと年を重ねる間に何をすべきなのか。
ただ七仏通誡偈を心掛けるだけなら、3歳児と一緒ではないのか。
如何に善を行動に移せるかがポイントとすれば、究極的には「精神力を鍛える」ことこそが重要で、それが人間的成長なのでしょうか。
あるいは善悪にすら執着すべきではないのか。
その執着を越えたところに、人間の本性?としての慈悲があるのか。
こういった疑問が無数にあるのですが、仏教の中でも様々な考え方があり、おそらく体系的にはまとまっていない?のですかね。
よろしければ、また質問させて頂ければと思いました。
ありがとうございました!
泰庵さま
お礼が遅くなり申し訳ございません。詳細かつ丁寧なご回答を有難うございました!
実は今、体調と精神の状態が良くない状況でして、自分の身の回りのことでいっぱいいっぱいです。。八正道の実践どころでは正直なくなっています。
一方で、人生なんて辛い(と認知しているだけですが)ことが沢山あるわけで、そんなときにこそ人の真価が問われるように思います。まさに老病のときですよね。
そうなると、やはり第一歩としては自らを整え鍛えることが、実践面では重要なように思われます。
今気になっているのが、八正道の実践が線形に鍛え上達するものか、仏を「演じる」性質のものか、といったことです。つまり、10年後にメジャーリーガーになりたいから、逆算して日々の練習を設計・実践するのか、既にメジャーリーガーになっているものとして、その精神性と努力量をもって日々取り組むのか。或いはその両方のアプローチが良いのか、ということです。
それぞれ具体例を挙げて頂き有難うございました。
年末、ゆっくり咀嚼いたします。
きちんと仏教を学ぶなら、しっくりくる宗派をある程度固めることが重要かもしれませんね。
改めまして、有難うございました!
泰庵さま
(CC:光禪さま、法源さま)
改めましてコメント追記頂き、有難うございました!
初めて聞く仏教用語(正信偈etc.)が出てきたため、当方でも調べて理解を深めて参ります。
現在心身が不調なので、先ずは食事・睡眠・運動・入浴等を通じた肉体のケアから始めたいと思います。
精神面のケア方法は、日光を浴びる・人と話す・書き出す・瞑想等でしょうか。
これらの復調後に、「ケガ」の原因分析と今後の予防策を考えたいと思います。
今回や過去のhasunoha問答を通じての、現時点での私の仏教理解です。
私自身の整理のために、簡単に纏めてみました。
・仏教は非常に懐が深い教え。宗派によって様々な考え方が存在する
・その中で、仏教の教えを非常に簡略化すると、以下の2つに集約される(⁉)
・すなわち、①四法印・四諦・空の理解、②八正道(中道)・慈悲の実践、である
・これら仏教の教えを身体化/深化するためには、知識の理解後、ひたすら実践あるのみである
・あまり難しく考えすぎず、「善を為し、悪を遠ざける」でOK
・仏の教えの実践のためには、(人間の器量の限界を理解しつつ、)自らの肉体や精神をよく「整える」ことが望ましい(=修行)
・その上で、可能であれば、肉体や精神をよく「鍛える」ことが(より)望ましい。(=修行)
・「結果に依らず、日常生活を善く生きようとすること」が仏教における「修行」である
・人間的成熟とは、その日常(今)を全うする先にのみ存在する
・なお、仏の教えから見れば世俗の価値観/生き方は「苦そのもの」。逆に世俗からみた仏教は恐らく「やせ我慢・ストイック」と思われる。
・基本的には、各人が信じる好きな生き方をすれば良い。
・しかし冷静に感覚を観察すれば、仏の教えの方が「本質的」かつ「現実的」かつ「自他の苦を和らげられるという意味で、ラク」と思われる
かなり粗いと思われますが、以上のような理解です。
**
引き続きどうぞよろしくお願い致します。
今年は、除夜の鐘の音が例年とは全く違った味わいで聞けそうです。
皆様、良いお年をお迎えください。
泰庵さま
お早うございます。補足を有難うございました。
仰る通り、強迫観念を手放すことが大事ですよね。
以下のような理解です。
・人間には「すべき、したい」等の様々な想念・執着がある
・これが苦の根本要因である(=仏の教え)
・しかし、精神の不調時(平常時も?)は、何も考えなくて良い
・逆に考えても良い。何かしてもしなくても、どっちも良い。
・強迫観念に囚われるなら、囚われれば良い。囚われなくても良い。
・精神が回復しても良いし、回復しなくても良い。
・あらゆる価値判断をせず、あるがままに、たゆたえば良い。
(逆に、価値判断をしてもよい)
・ただ、Let it be
+++
以下は別の機会に、ご意見をお伺いさせてください。
「足るを知る」「向上心」のバランスについて、個人としてしっくりくる見解を得ました。
■足るを知るには(仮説)
・逆説的だが、最初は「欲望・向上心むき出し」の方が良い
・欲求を満たす経験こそが、「足るライン」を知ることに繋がる
・欲求追求や実現経験が、自らを満たさないことを、体に理解させる
・知足は、頭で理解するものでは不十分。体得する必要がある
例)お金を稼ぐ。食事にお金をかけられるようになる。最高級の焼肉も、ファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。
しかし、ずっと貧しく、一度も高級焼肉を食べる経験なくしては、どうしても「やせ我慢」での知足になってしまう。
「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠なのである。
お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件だったのかもしれないなと思った次第です。
長文失礼致しました。お返事には及びません。
引き続きよろしくお願い致します!