選別的救済
どんな宗教やアドバイスでも、相手がそれを理解し考える力を持っていること前提になっていますよね。
仏教も例外ではありません。
しかし世の中には先天的または後天的理由によりその力を持ち合わせていない人もいます。
理解し考える力を持っていない者がもし道を誤った場合、仏教はどの様にアプローチするのですか?
そういった人たちに救いはあるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
拝読させて頂きました。
あなたのお考えもわかります。その思うことももっともかと思います。
思考停止かもしれませんけれども、私達は誰しもが未熟者です、全く何も整っていない無知なのが私達です。
ですから心から理解し考える力をなかなか持ち合わせていないのが私達です。
仏様から見れば私達は何もわからない、分かろうともしないものなのかと思います。私達はどんぐりの背比べの様なものなのでしょうからね。、
変に考えてしまうから余計に真理をわからないのかもしれません。誰しもがあるがままを受け入れていくことできませんからね、だからこそ迷いや悩みや苦しみが生まれてくるのです。
その様な私達を仏様は決して見捨てることはありません、全てのものをお救いなさって下さいます。
仏心是大慈悲、一切衆生悉有仏性よくよくお考えなさってみて下さいね。
寺や神社や教会に救いがあるのではない。あなたが。私が。⤴✨
うちの娘は障害を抱えておりまして。
会話もままならないことがよくあります。
これは救われていないのではないか?そう考えるかもしれません。
近所の施設から20人ぐらいの聖者の行進があります。
みんなこちらの勝手に思う推測や設定や救われてないのではないか?という想定とは別に幸せそうに今、そこ、その地を、ただ、歩んでいる。
手を振って、振りかえしてくれる人もいる。
それすらわからない人もいる。
それでも生命として、人として、その人のその時のその様子を全うしている。
この全う✨というところ。
あなたがこれをご覧になられて、この問題に向き合い、どうあればよいのか?すくわれているのか?いないのか?と問うたとします。
花は実が実らずとも花をまっとうしているのです。
種でよし、芽で良し、つぼみでよし、咲く寸前で良し、咲いてよし、枯れてよし、うまく咲けんでもそれはそれ。実を実らせても駄目でもそれでも今日も人は死んでいく。いきている。知らずにさっきまで息を吸ってた。あるいは息をはいていた。
そこに悟りや涅槃やら仏やら衆生、迷いやら苦やら救われていたOR救われていないなんてことがあなたの上に「今」あったかね?ワトソン君。✨
そこに救いがある。
「そういった人たちに救いはあるのでしょうか?」
表から見ればそれはない。そういう子を持つ親や家族は大変です。
それでも最上、最高の心をもとめ、めざすのが慈愛。
それを仏教では菩提心という。
「石ころでも宇宙でも救わずンば死ねん!」と心のどん底ボトムからの上げ底パンチ。仏の押し上げ精神仏智ギリ!
元々全ての人に既に提供されている救いというモノがある。
それを成仏という。浄化されっぱなしの今という。無垢清浄の光という。
あなたも地蔵になればいいのです。
天上界も地獄界も可能な限りすくってあげたいなぁと志して、できる限りの救いを提供してあげたいと志す。あなたが飛び込んで生ける好きな世界に行けばいいのです。救ってあげたい!と思う気持ちがナイスアイデアも生み出す。いい助けやいい笑顔を引き出せる。元々この心地よさ、いいなぁ✨となる。
あなたのような繊細で聡明な追求心がある人であればさぞかし多くの人々を救える大叡智を生み出すことができるでしょう。世間の人が不運・不遇と思う人や道外れな人であっても痛みや快適さは同じ。共によりよい道へと導いてあげて欲しいと思います。
病を見て薬を処方できる者を薬師と呼ぶ
仏教の用語の一つに“応病与薬”というものがあります。
まさにタイトルの薬師の様に、煩悩を見て教えを処方できる者を“仏陀”と呼ぶわけですね。
お尋ねの件には周利般特尊者、またの名をパンタカ尊者の話が有名で分かりやすいでしょう。
優秀な兄とともにお釈迦様に弟子入りしたものの、何カ月たっても教えの一節も覚えられないほど愚かだったものですから、その兄に教団を追い出されかけました。
そこにお釈迦様が現れ、一片の布を渡し、『塵を払い、垢を清めん』の文句と共に教団の掃除することを命じたのです。
彼は一心に掃除を繰り返すことで、落とすべき汚れ、塵、垢とは心の汚れであり、それを除くのがお釈迦様の本意であると悟り、修業を成した、というお話です。
パンタカ尊者はコミュニケーションと記憶力に難がありましたが、お釈迦様は“どうすればパンタカ尊者が悟りを得られるか”という問いに答えを出したのです。
これは教えられる側の“教えられたことを一心にやりなさい”という教訓のほかに、
“相手が飲み込める薬を出す”という教える側の教訓でもあるわけですね。
この世のハンディキャップ全てに応じた薬を処方することは、凡夫たる私たち現代のお坊さんには難しいかもしれませんが、お釈迦様ならきっと成し遂げることでしょう。
そう信じているからこそ、私たちは“お釈迦様の言葉”たるお経の研鑽をするのですよ。
功徳を回向(えこう)、来世や未来に期待
たとえば、仏教を理解する前に亡くなった赤ちゃんが、別の生き物に生まれ変わるケース。
亡くなった赤ちゃんが何に生まれ変わるかわからない。
極楽浄土の菩薩様になるかもしれないし、虫や魚になるかもしれない。
その場合も、遺族やお坊さんが法事や普段の修行などで作った功徳(善の影響力)を、赤ちゃんの生まれ変わりのために回向(えこう)して、追善供養、つまり修行の援護射撃をするのです。
また、浄土宗では、赤ちゃんの生まれ変わりが阿弥陀仏の光明に触れて極楽浄土に往生できるように願い、念仏します。
宗派によっては、唯識思想という考え方もあり、あらゆる生命はアーラヤ識という深層心理の部分でつながっていると考えることもでき、その場合は回向を説明しやすいです。
そうじゃなくても、世の中に善行為を増やせば、回り回って赤ちゃんの生まれ変わりにも良い影響が及ぶだろうと考えることもできます。
なので、仏教徒が修行や善行為をしときは、その功徳を他者とも分かち合うように願いを込めます。
また、もしも自分が仏様(優秀な指導者)に成れたら(成仏できたら)他者を救い導くぞと、誓いを立てる場合もあります。
質問者からのお礼
大変お礼が遅くなりました。
とても興味深く読ませていただいていました。
この質問はかなり仏教の痛いところを突いており、「救済」「導き」「改心」の限界を問うています。
4件もの長文回答を頂けたということは、お坊様たちの興味を強くひいた質問だと解釈しています。
しかし今一つ的を得ない。
ハッキリと「導けぬ場合もある」と言える度胸のあるお坊さんが現れなかったことが悔やまれます。