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自己承認欲求と自己顕示欲について

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有り難し有り難し 18

いつも素晴らしい回答ありがとうございます。
大変いつも参考にさせていただいております。

今回またご質問になるのですが、自己承認欲求と自己顕示欲との付き合い方についてです。
私は劣等感も強いですが自己承認欲求もかなりあり、動画とかTwitterで投稿したら少しでも「いいね」がほしいという現代病にかかっております。
人気な人や、○○が推しなんですという言葉を見るたびに自分にはそういった推しはいないんだなと悲しくなります。
結局誰かの推しになりたいという自分勝手な欲も変ではあるのは十分承知なのですが、誰かに認められたいという欲望が先行します。
そういう有名な人は結局自分の楽しいことをやっててそこに付いてくる人がいると考えてはいるのですが、自分に味方はいるのだろうかといつも不安になります。

私は前に進めるのでしょうか、この劣等感や自己承認欲求を乗り越えるには結局努力しかないのでしょうか。

お忙しいところ恐縮ですが、何卒お言葉を頂戴できれば幸いです。
何卒宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

承認欲求という言葉があるだけ 曖昧な評価より事実で手応えを

人は言葉に弱い。
承認欲求とか自分を愛するとか自己肯定感とかそういう言葉を知るとそれが足りていないのではないかという心理トラップにはまる。だまされちゃぁいけません。
自己啓発本の前に立つと「お前は不完全」みたいなタイトルの本ばかり。
じゃぁ、逆にアーティストたちが大勢のオーディエンスにキャーキャーされて本当に人生お腹いっぱいでしょうか。🍚お金いっぱいある人たちなのになんであんな満たされてないし、威張り散らしているのでしょうか。
私はギターをやりますが、本当にすごいギタリストに必要なのは「知音」=真実の共感者であり、それよりも自分自身の正直な心=魂との共鳴です。
人間それぞれトマトにはトマト、カボチャはカボチャ、にんじんはにんじんでそれぞれの真の独自性がある。同じセンス、同じ共鳴の周波数同士で共鳴しあえばいいのです。
アートというものはマニアックな面もありますが素人さんでもそのすごさ、魂はわかるものです。他人に迎合してウソポイ評価などを求めてはいけません。それこそなりすまし。偽の称賛や有名力や権威を好む人は真実よりも名利を狙う。好みもあるにはあるでしょうが、玄人目線ではこの人はちょっとまだ青い🍏ということがバレちゃうものなのです。
大切なのは誰に認められたいのかより自分が何をどう極めたいか。
芸や道を極める世界においては素人ちゃんの有象無象のパオーン🐘な称賛は意味がないのです。
道元禅師も「はずべくんば明眼の人の言をはずべし」と。ちゃんとわかる人の言葉を頼りとしなさいよと。
ギターの世界には仙人、神、人間国宝、さまざまな称号がありますが、それでもその称号よりもLIVEでどうか。
本当に最高のサウンドを放つときはプレイヤーもオーディエンスも完全同期。内なる共鳴。ギタリストも心と手とサウンドと顔とが完全に同期。空也上人の像ぐらいに「そのこと自体が最高」なのですよ。評価なんて後からのとっぴんぐ。大事なのは事実とのどっきんぐ。心とそのこととの完全一致。
劣等感と自己顕示欲と承認欲求を佛っ超えて最高のアートを生み出したミュージシャンといえばこの方ですね。有名力より事実そのものが評価よりも多くを力説している。魂を聴き取れる力が養われると評価よりも事実の方が重要だと見えてくるはずです。https://www.youtube.com/watch?v=7k07j7LcLqw

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

承認欲求の正体は目標の不在

相談文を読ませていただいて、感じたことは
『乗り越える必要あるのかな?』ということです。

あなたには、人気者になりたい欲求があり、
あなたの言う通り、人気者は自分の楽しいことをやっている人が多いです。
なら、あなたは承認欲求を乗り越える努力ではなく、承認欲求を満たす努力をすべきです。

写真を撮る技術をあげる。
文章を工夫する。
映える技術を磨く。
自分のカッコよさを高める。
役立つ知識をつける。

いくらでも方法があります。
黙って欲求が満たされるのを待っているのは愚者の選択でしょう。
もし、そんな行動をしたくないのなら、それは“欲求が強い”のではなく、“行動力が弱い”のです。
そんな状態であれば、欲求を抑える方法を考えるより、わずかでも行動できるように行動力を鍛えた方がマシです。

いいねを獲る。
これは、自分のフォロワーのニーズを掴み、満たすという行為です。
気遣いと、観察力と、行動力と、センス、コミュニケーション能力が問われます。

成し遂げられた時、自分が一回り成長していると感じることができるでしょう。
その成長から得た自信しか、自分を救ってくれるものはありませんよ。

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有り難し
おきもち

日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐り切ったり、同僚とぶつかったり、挫折挫折の仏道人生を歩んでおります。 だからこそわかる、答えられることがきっとあると思ってHasunohaに戻ってまいりました。 精一杯、皆様のお役に立てるよう頑張ります。

質問者からのお礼

とても素晴らしいお言葉ありがとうございます。
また、頑張ろうと思います。

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