この世は本当に一切皆苦なのでしょうか?
仏教の教えに全ては苦しみである、というのがあると思いますが、僕は普通に人生楽しいです。この苦というのは思い通りにならないという意味らしいですが、例えばテレビの電源をつけようと思ったらつけられます。この時点で一切ではないと思います。
そもそも一切皆苦であれば、自殺をすればいいのではないでしょうか?(自殺を推奨しているわけではありません)輪廻という前提がない現代日本で一切皆苦と言われても、「じゃあ死ねばいいんじゃない?」と思ってしまいます
僕はアンチではなく、仏教徒です。真宗の門徒なのですが、一切皆苦と言われるとひっかかってしまいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「一切」の意味について。
確かに「一切」を、ひとつひとつの事象の何もかも、365日24時間いつでも、瞬間瞬間、どんな小さなことでも全て、などと捉えると、ご相談者さまの仰る通り「一切皆苦」ではなくなりますね。
私たちの人生では、その人なりの幸せ、充実、楽しさなどがあり、苦しみ(or 思い通りにならないこと)では無いことがたくさんあります。ご相談者さまの言われる通りです。
お答えになるか分かりませんが、私の理解しているつもりのお釈迦さまの教えの「一切皆苦」は、「一切のことは苦しみとつながっている、一切のことは苦しみになってしまう」というような意味だととらえています。
例えば「愛別離苦(あいべつりく)」という苦しみは、愛する人と過ごしている時は幸せだけれど、未来永劫続くわけではない。いつか何らかの別れが訪れるという苦しみです。
つまり、今、幸せで充実していても、それは諸行無常の理にしたがって、失ってしまうことになる。その失ってしまうことを何とかしようとしても、なかなか思い通りにならないことが苦しみにつながっていくという意味です。
若い時の体力も有限です。命も、人の縁も、お金も、万能感も全て、いつかは思い通りにならない時がきてしまう。実は、幸せであればあるほど、その喪失感のギャップでより苦しんでしまうことも起こりえます。
いつまでも若いままでいたい。別れたくない。死にたくない。強く執着すればするほど苦しくなってしまいます。
この私たち人間がもつこの思い通りにならない苦しみを、和らげたり、克服しようとするには、しっかりと私たち自身が自分の心に「一切は苦しみで思い通りにならないんだ」と戒める、言い聞かせることが第一歩なのです。
そのテレビが映るのはなぜか、という問いが足りない。
この世は他人との兼ね合いで思惑が通ることもあります。
テレビはテレビ局で働く人、電気を作る人、そしてその整備をする人など、たくさんの手助けがあるから映るのであって、あなたが映ってほしいと思ったから映ったのではありませんよ。
こうやって他人に依存している時点で思うままではありません。
そして、他人に依存しないとテレビが映らないからと言って、テレビ番組がつまらなくなるわけではありません。
『思い通りにならない=つまらない、つらい』ではないのです。
だから、私の感想ではありますが、この世界はとても生きる価値のある世界だと思っていますよ。
一切皆苦の真意は「苦しみ」ではなく「人間の見解からの自由性」
一切は苦しみであるという意味ではありません。
一切はみな「ドウッカ」=「人間の見解を離れた姿」「こちらの願いや求めとは無縁な姿」であるという意味なのです。
ここを間違えると世間によくある間違った解釈の仏教書に引っかかって間違った思考が生まれます。
たしかに生きていれば思い通りにならないことは「多い・ある」ものですが、だからって24時間ずっと(# ゚Д゚)「痛ぇー!苦しいー!タヒヌー!」とか言いながら生活している人はいないでしょう。一切が皆苦しみだったらエライことになりますし、釈尊もめちゃめちゃネガティブな人で救いどころではありません。💦
これは仏教業界でも間違った解釈がなされていることを改める人たちが増える必要もあると思っております。
サンスクリット語の言語の感覚から中国語→日本語に訳されていく中でちょっとしたズレが生じてしまったのではないでしょうか。
むかしの偉い大学教授やら権威ある人たちが「そのように解釈」しちゃうと後世の人たちが忖度して、その流れを否定しないように上手に継承するというおかしな流れは日本独自のものだと思います。それからも本当は出家しなければならないのですが。政治の世界でも同じようなことがあります。外交問題で失敗した人間が業界でいまだに力を持っていると、その問題をその派閥の人間は改める動きが出しづらいということがあるそうです。
大切なことは、そこからきちんとした救いに向かっていく姿勢です。
四苦八苦などの思い通りにならない苦しみをでは「どうすれば救えるのか?」ということの答えの一つが一切皆「苦」なのです。
一切のもの、一切の出来事、一切の出遭い、一切の物事の起こりのすべてが「我々が願う、求める、望む、期することから離れている=思い通りならない」という姿をしているということなのです。
天気も温度も明るさも湿度も自分がコントロールすることはできません。
逆に言えば人間はおおよそ自分中心に物事を眺めている姿勢があるということでしょう。
人間の側に「おおよそそういうところがある」けれども、でも、元々この世の一切はあなたの願望や求めから無縁な❝自由な❞姿をしてくれているよ?という救いへの導きなのです。
四法印、三法印は救いの法則です。
日本仏教はネガティブに説くところが多い。
そうではありません。
救いの法則なのです。
そのように説ける師が少ないだけです。
「苦の見方」
というタイトルのスマナサーラ長老の本が出版されています。そこに書かれていると思いますが、少し私なりに付け足すと……
「一切皆」は、間違いです。般若経などの漢訳の時に間違えたというよりは般若経などでは「一切行は皆」と漢訳されたのを後の人々が間違えたかもしれません。パーリ語の原始仏教経典では、漢訳すれば一切行苦、となります。行・現象、つまり生じたものは、すべて苦で、生じていないものは苦ではありません。
では、死は苦ではないかというと、これは仏教の意味ですので、死と生はセットです。行・現象は刹那生滅し続けるので、生まれては死ぬ死んでは生まれるそれも瞬間ごとにという現象のカラクリをとらえた立場から、ああ、行はすべて苦ですね、と、これが真理だと分かったという意味です。
その苦は、肉体精神的な苦を含みますが、不安定ということでもあります。生滅し続けて安定していないので、苦です。
生きることや死ぬこと=生滅の連続は安らぎとか安定がないという真実を見抜いた悟りの立場でまとめた言葉が一切行苦です。日常の生活の苦楽を言っているのではありません。
「一切行苦」
やつさま
一切皆苦とは、「一切行苦」のことであり、全ては縁起し空であり、無常なるものであり、何もそこに実体的なものは微塵もないにも拘らず、常々、私たちは、凡俗の顕現と凡俗の執着によって苦しんでしまっていることを表すものとなります。
この行苦から壊苦、苦苦も生じてくるものとなります。
今は思えばすぐにつけられるテレビも永久永遠につけられて楽しめられるものではありません。主客ともに永久永遠に楽しめるようなものではなく、実体的なものがあるとして楽しみに囚われてしまっていては、それがいつか苦しみに必ずなるということであります。
合掌