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輪廻の輪を制御したいです

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こんにちは。お読み頂き有り難うございますm(__)m私はまだ知らされた訳では無いですけど、国に貢献した功績で成功したと思われる状況に有ります。私の悩みは何も知らされずに成功したと思しきことにより父と姉が国から贈られたと思われる私の成功の褒美を奪ってしまったことに有ります。具体的に父は私への褒美をきっかけに約30人以上の婚外子を儲けてしまったと思われます。この間私が受け取った褒美はゼロでした。私は現在独身なのですけど、父と姉は褒美を奪っただけでは飽き足らず私に結婚させないことで子孫に亘る利権についても妨害をして来て私の成功を乗っ取ろうと企図しております。私としては自分の輪廻の輪が金輪と表現出来るような立派な物に育ったことは嬉しいですけど、同時にこの金輪が私に制御できない状態に陥りつつあることも事実だと思います。後は、父が80才に近いので私より先に鬼籍に入ることに希望を抱くほかない状況にあります。こう言った状況を踏まえて私にどう言った選択肢が残されてるか智恵をお借りしたいです。私としては家族と縁を切ることも止むを得ないと考えております。どうかご教授の程宜しくお願い申し上げますm(__)m


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人は生まれながらに出家・出離・自由の身。

何をなさったのかはよくわかりませんが、世の中は声を上げればちゃんと届くものは届く時代です。
声を大きく取り上げてくれる人たちもいれば、某新興宗教の教祖様の息子もYOUTUBEで一切合切暴露して出家世界からも出離しました。
私も坊さん業界は宗派のロボット人間、宗派スタッフの生産システムにしか感じないことがあり、宗派や僧侶たちからもいろんな意味での僧シャルディスタンスをとっております。シャレかい。
あなたもそうする気持ちで家族だろうが、お家ルールだろうが、あなたの働きや活躍を縮めてしまうのであれば上手に距離をとったり、発信すべきを発信された方が良いのではないでしょうか?
あの時にあいつにあんなことをされた―ということを一年365日の中で200日嘆くよりは20日でもその苦痛や理不尽、おかしな流れを変える動きをされた方があなたももやもやした気持ちが晴れると思います。
アナタは家庭に縛られているのではありません。
あなたが、家庭に縛られているとその都度思ってしまっているだけではないでしょうか?あなたは自由な発信と自由な活動をしてよいのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ブレンディーさま

業(カルマ)の力は強力です。

釈尊、阿弥陀仏、いかなる如来といえども、衆生個々人のカルマに直接に介在して、そのものを救うことはできないぐらいに業は強力なものであります。

仏教は、その業をいかに清らかに、より善いものへ調えていくべきかという教えであり、この教えにより、自分を輪廻から救うのは、その教えを頼りとして、自分が、自分自身の業を清らかに、より善くに調えていくこと以外に方法はないのであります。

また輪廻を制御できるのは、とても普通の凡夫では不可能であり、煩悩障を断じた阿羅漢以上、第八地以上の菩薩などの聖者でなければ難しいものとなります。(では、葬儀の役割における引導はどうなるのかということですが、それについては別稿でかなり検討、精査を繰り返しています)

人として、あるいは天としての幸せ等は、確かに過去世からの果報ではありますが、人、天の幸せ、特に富や名誉等は所詮は儚い夢幻のようなものであります。

仏教では、来世の輪廻上における富や名誉等の幸せを求めるものではなく、この輪廻からの解脱、更には、全ての一切衆生を救うための悟りを得たいという志を持つことが大切なことになります。

自分も家族も皆も、この輪廻上で同じく等しく苦しみ喘いでいます。

自分も家族も皆も救われるようにとして功徳に励むことが大切となります。

父も姉も救われますようにとして善い行い、仏教であれば、六波羅蜜の実践に努めて参りたいものでございます。

それが父、姉への生前においてであっても追善供養というものになります。

合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

eishun様
覚元様、

早速ご回答頂き有り難うございますm(__)m仏教としては解脱を促すほかないようですね。私は阿羅漢や、第八地以上の菩薩では有りません。しかし、ここまで成功したと“思われる”と、今さら悟りについて追究しようなどと言う心境にはなりません。私が不思議に思うのは、日本は仏教国でありながら何故これだけ現世益に拘泥する人々が多いのかと言うことです。そこに諦めることを身上とする仏教が関係してるかと言うことです。本当に、私に纏る人々が好き勝手行い、私から利益を奪おうとするので目眩がしそうです。父と姉のために行いを正すことは有り得ません。そんなことしたら悪の勝利です。そんなことするなら二人と縁を切ります

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ