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不動心とはどういう事でしょうか。

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有り難し有り難し 22

いつも大変お世話になっておりお坊様には心から感謝申し上げます。

よく剣道の手ぬぐいに「不動心」と書いてある物があります。
具体的にどういう心を表すのか分からなくてネットを検索していたら「真言宗」と関係があるという記事を見つけました。

差し支えなければ噛み砕いて教えて頂けますと有り難いです。

2022年2月28日 11:46

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心をコップに、感情を水に例えるお話はよくあるかと存じます。
コップにあふれるほどの水を注げば、こぼれます。

こぼれるというのは感情の噴出です。
泣いたり、笑ったり、怒ったり、ともかく、自分を制御できない状態に陥ることはわかっていただけるかと存じます。

いわば不動心とは、このコップを大きく保ち、水の量を調節することです。
常に心に余裕を持ち、臨機応変に対応できる状態を維持していることです。

そのためには多くの場合、とにかく修練を積み、無意識にできることを増やしていくのが肝要です。
キャベツを千切りしている最中に雑談が出来る人であれば、並大抵のことでは指を切ったりしませんが、集中しなければ千切りにならないくらいの人を驚かせたりすれば指を切ってしまうでしょう。
このように、自分の体に動きを馴染ませ、コップの水の量を減らしておくことで不動心を再現することができます。

2022年2月28日 13:56
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けいじょう
日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐...
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人間本来の元々備わっている不動心

人間はあらゆる種智がもともとインストールされています。
それを宝蔵という。正法眼蔵、地蔵、一切蔵と言ってもいい。宝の入ったお蔵を人間という。
元々人間は仏で、仏も人間だから、人間は万人みなあらゆる仏の種智が備わっているのです。それゆえに宝蔵に喩えられるのです。
不動心とはその中の一つ。動ぜざる心であり、また自在に動ける心のことです。
一切動じないというのであれば家、部屋、自己の殻に引きこもってしまえば、何にも動じません。そういう不動は単なる厭世主義者であり、見ざる聞かざる言わざるを悪く解釈してしまったような、何も見ない逃避の心理と変わらないと思いませんか。そういう俗語・世俗の法としての「お不動様」なら誰にもできるでしょう。ですが、それはちょっとさすがに打たれ弱い。条件付けが多いお不動さんで頼りない。よって、もう少し不動心をアップデートしてクオリティを高める必要がある。
お釈迦さまは街中で雷が起ころうとも動じない深い禅定にあったと言います。
それは自身の内なる動き、身心の外の世界の事の起こり、出来事、事象にも心が「そこに居ながらも」取り扱うことのない様子です。
身心があっても私(わたくし)する意識がないのです。
逆に「動ずる」私する意識とは、自分流になにかを評価したり、価値をつけたり、アレコレ口を出さずにはいられない心といえましょう。
こう言っちゃなんですが、静かなグループの中に我の強い人が一人入ってくるだけで楽しかった雰囲気やルールが壊れてしまうということがあったりしませんか?
それはわたくしというあちこちをベタベタ触る人のお手つき触りまくり劇場。テレビをつけるとそういうコメンテーターがよくいつも定位置で出ています。そういうガツガツした人間の我やエゴや自分の都合・マイルールのない様子。
瞑想・阿字観・坐禅・念仏・止観…、自己を見つめ我の立ち上がりを滅して「わたし」という出しゃばり社長がこの身心からいなくなった様子を無我と言い不動というのです。真の指導者やリーダーはそれがなければエゴイストであり、自己実現欲求のカタマリです。世界を好き勝手にしようとします。自分だって同じことをされたら嫌なはずなのに…。これからの世の中は我を慎む力を持った人たちが後世の為にも世の中を良くしていかなければなりません。ぜひとも不動心を内に秘めてより高い人間性をみんなで追求してまいりましょう。

2022年2月28日 15:30
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

けいじょう様
とても分かりやすいご回答をどうもありがとうございます。
日々の修練はとても大切ですね。無意識で動けた時に良い結果が生まれたという話は聞いた事があります。

丹下覚元様
「それは自身の内なる動き、身心の外の世界の事の起こり、出来事、事象にも心が「そこに居ながらも」取り扱うことのない様子です。
身心があっても私(わたくし)する意識がないのです。」
語彙力のない私はなんと表現すれば良いのかわかりませんがお釈迦様は「現代に置き換えるのなら人生の達人ですね。」

私が、俺が、が全てを叩き壊し他人を傷つけ一人孤立していくのですね。恐ろしい事です。

大切な事に気づかせて頂きましてどうもありがとうございます。

「真言宗」問答一覧

愛染明王様のご真言を一般人が唱えて良いか

初めまして。 私は、実家の宗派が浄土真宗ですが、中学校と高校が真言宗の学校であり、真言宗のお寺によくお参りに行っております。 そのような中で、真言宗の僧侶の方がお書きになった本を拝読し、YouTubeを拝読する機会があり、愛染明王様のご真言が書かれておりました。 そこで、自分にとっての良縁が結ばれるようにと、自宅で白い紙にお願い事と自分の名前を書き、その紙を両手で挟んで 愛染明王様に語りかけ、ご真言を毎日何回か唱えております。 すると、私にとって良い意味で不思議な出来事がたくさん起こり始め、なんだか毎日が安定して楽しい未来を想像してワクワクしてまいりました。 しかし、ネットでより深く調べてみると、「ご真言を素人が唱えるのはよくない」「敬愛法は素人が安易に行ってはいけない。代償が起きることがある」と書かれており、少し不安になりました。 そこで私は、「確かに、自分はご利益の内容をきっかけにご真言を唱え始めたので、不純で恐縮だった。」と反省しつつ、 「愛染明王様のおかげさまで日々私は安心して楽しく暮らせるようになったのだから、その感謝と挨拶を、愛染明王様が祀られているお寺に伺ってお伝えしよう」と考えるようになりました。 そしてそのまま愛染明王様との繋がりを信じ、ネットの記事を気にせずご真言をお唱えしているのですが、良いのでしょうか?また、よくお参りする真言宗のお寺とは別に、愛染明王様が祀られているお寺やその他のお参りしたい神社仏閣に複数お参りに行くことは、良くないことなのでしょうか?

有り難し有り難し 9
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真言宗のお坊様

不躾なお話になりますが、お許しください 私は単身者もうすぐ40になります。 福祉の仕事で、専門職として働いておりました。 10数年勤めておりました。やりがいはもちろんあるのですが、お役所仕事と言いますか、毎日の大人同士の人間関係を大切にしてその日を過ごす。そのような雰囲気があります。 ここ最近は無気力な気持ちに苛む事が多くなりました。これについては私生活における大きな悩みも要因でした。少しメンタルの不調が続いています。 今はまたチャンスを頂き、同業他社で働く予定で仕事開始を控えております。 経済的な事もあり、求人を読み漁ってました。その中でこれがやりたいという気持ちも一切湧かず、前職と比べたら給与も安く肉体労働系の仕事など今より条件が悪くなるものばかりです。 働く事は生活のためであるのだから自分の考えでは甘いと思います。 物事を思い詰めてしまうところがあり、何事も見通しが持てないと不安が強くなる特性もあります。 今までの仕事での充足感や必要とされていた感覚を捨てて、異業種に行く怖さがとても強くあります。 そんな中ここ数年、YouTubeなどでお坊さんの話を聴く機会を多く持ってました。 そして生まれ育った環境の影響もあり、真言宗僧侶に興味関心を持っております。 なぜ興味を持ったのかというのも正直なところ、仏教の先人達の教えを学び、自分の人生をより豊かにしていきたい。というのが大きな理由になります。僧侶になれば自分の精神的な弱さも含めて救われるのではないか?と考えました。人のために役立つ事は苦にならないのですが、反面人付き合いが得意ではありません。人間関係の疲れ、俗世から脱出したいというのもあります。 僧侶といっても宿坊へ就職する感じになります。 お坊様からこのような考えについて何かご意見頂きたかった事。 男性社会であるお寺(宿坊)での実際の業務や修行の話を伺いたく相談いたしました 私の勝手な想像ですが、お寺(宿坊)が僧侶としての道を支援して頂ける。これは一生仕える気持ちでそのお寺に就職という事を相手様も希望している。生半可な気持ちでは来て頂きたくない。というのが本音ではないかと思っております 次の内定が決まった福祉の仕事を長く続ける事が、今自分にとっての最適解と考えてはおりますが、この次はお寺で働きたい。とやはり考えてしまいます 何か方向性を示して頂けましたら幸いです

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真言宗の僧侶になるには

僧侶になる人の心構えを教えてください。 自身を修行の場に身を置き、一切言い訳や弱音を吐けない場所で仏教を学びながら、自分や周りの人生を仏教を学んだうえで豊かにしていけるのでは?と考えてます。 高野山の宿坊では宿業務の傍ら、僧侶になれます。と求人が出ております。 このような場所に身を置いて学ぶ事の想像が出来ませんが、どんな人間でもそれなりの精神的成長は見込めるものでしょうか? 今は都会で暮らしており、少し人生に疲れているところはあります。何事にも中途半端になってしまうところもあります。 ですが、高野山の宿坊を調べてるうちに、ピンキリとあり、結局のところお金が神様と考える資本主義の世の中から断ち切れるか?修行の場にも俗世の欲望や煩悩から切っても切れない場であるのか? 全ては自分次第だとは思いますが、何かアドバイス頂けたらと思います。 真言宗にしたのは高野山含めて昔から馴染みがあります。 あと人との関係性を築くのがあまり得意ではなく、大体独り行動が多くここまで来ました。医療系の仕事で業務の会話のみで成り立つ、女性に囲まれた環境が長かったです。 男性社会の人間関係はどのようなものかも実情を教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ