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不動心とはどういう事でしょうか。

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いつも大変お世話になっておりお坊様には心から感謝申し上げます。

よく剣道の手ぬぐいに「不動心」と書いてある物があります。
具体的にどういう心を表すのか分からなくてネットを検索していたら「真言宗」と関係があるという記事を見つけました。

差し支えなければ噛み砕いて教えて頂けますと有り難いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間本来の元々備わっている不動心

人間はあらゆる種智がもともとインストールされています。
それを宝蔵という。正法眼蔵、地蔵、一切蔵と言ってもいい。宝の入ったお蔵を人間という。
元々人間は仏で、仏も人間だから、人間は万人みなあらゆる仏の種智が備わっているのです。それゆえに宝蔵に喩えられるのです。
不動心とはその中の一つ。動ぜざる心であり、また自在に動ける心のことです。
一切動じないというのであれば家、部屋、自己の殻に引きこもってしまえば、何にも動じません。そういう不動は単なる厭世主義者であり、見ざる聞かざる言わざるを悪く解釈してしまったような、何も見ない逃避の心理と変わらないと思いませんか。そういう俗語・世俗の法としての「お不動様」なら誰にもできるでしょう。ですが、それはちょっとさすがに打たれ弱い。条件付けが多いお不動さんで頼りない。よって、もう少し不動心をアップデートしてクオリティを高める必要がある。
お釈迦さまは街中で雷が起ころうとも動じない深い禅定にあったと言います。
それは自身の内なる動き、身心の外の世界の事の起こり、出来事、事象にも心が「そこに居ながらも」取り扱うことのない様子です。
身心があっても私(わたくし)する意識がないのです。
逆に「動ずる」私する意識とは、自分流になにかを評価したり、価値をつけたり、アレコレ口を出さずにはいられない心といえましょう。
こう言っちゃなんですが、静かなグループの中に我の強い人が一人入ってくるだけで楽しかった雰囲気やルールが壊れてしまうということがあったりしませんか?
それはわたくしというあちこちをベタベタ触る人のお手つき触りまくり劇場。テレビをつけるとそういうコメンテーターがよくいつも定位置で出ています。そういうガツガツした人間の我やエゴや自分の都合・マイルールのない様子。
瞑想・阿字観・坐禅・念仏・止観…、自己を見つめ我の立ち上がりを滅して「わたし」という出しゃばり社長がこの身心からいなくなった様子を無我と言い不動というのです。真の指導者やリーダーはそれがなければエゴイストであり、自己実現欲求のカタマリです。世界を好き勝手にしようとします。自分だって同じことをされたら嫌なはずなのに…。これからの世の中は我を慎む力を持った人たちが後世の為にも世の中を良くしていかなければなりません。ぜひとも不動心を内に秘めてより高い人間性をみんなで追求してまいりましょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

心をコップに、感情を水に例えるお話はよくあるかと存じます。
コップにあふれるほどの水を注げば、こぼれます。

こぼれるというのは感情の噴出です。
泣いたり、笑ったり、怒ったり、ともかく、自分を制御できない状態に陥ることはわかっていただけるかと存じます。

いわば不動心とは、このコップを大きく保ち、水の量を調節することです。
常に心に余裕を持ち、臨機応変に対応できる状態を維持していることです。

そのためには多くの場合、とにかく修練を積み、無意識にできることを増やしていくのが肝要です。
キャベツを千切りしている最中に雑談が出来る人であれば、並大抵のことでは指を切ったりしませんが、集中しなければ千切りにならないくらいの人を驚かせたりすれば指を切ってしまうでしょう。
このように、自分の体に動きを馴染ませ、コップの水の量を減らしておくことで不動心を再現することができます。

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日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐り切ったり、同僚とぶつかったり、挫折挫折の仏道人生を歩んでおります。 だからこそわかる、答えられることがきっとあると思ってHasunohaに戻ってまいりました。 精一杯、皆様のお役に立てるよう頑張ります。

質問者からのお礼

けいじょう様
とても分かりやすいご回答をどうもありがとうございます。
日々の修練はとても大切ですね。無意識で動けた時に良い結果が生まれたという話は聞いた事があります。

丹下覚元様
「それは自身の内なる動き、身心の外の世界の事の起こり、出来事、事象にも心が「そこに居ながらも」取り扱うことのない様子です。
身心があっても私(わたくし)する意識がないのです。」
語彙力のない私はなんと表現すれば良いのかわかりませんがお釈迦様は「現代に置き換えるのなら人生の達人ですね。」

私が、俺が、が全てを叩き壊し他人を傷つけ一人孤立していくのですね。恐ろしい事です。

大切な事に気づかせて頂きましてどうもありがとうございます。

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