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僧侶になりたいです。

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突然失礼致します。
自分は今僧侶になることを目指して勉強をしている高校生です。
現在僧侶になるにあたり色々な場所から情報を集めていると、出家したら両親の葬儀や親戚の葬儀に出られないと書いている記事を見かけました。
この記事に書いてあるのは本当なのでしょうか?
ご回答よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏道 仏行 仏飯 そのことを「どう」より良く向かわせるか 

大丈夫です。別にそんなことはありません。
親子というものは日常の関係が毒親・ダメ息子の関係でもない限りはそもそも親子という関係そのもの自体が天然の授かりですから。
出家をして制約を受けることはないでしょう。四恩とは父母・衆生・国土・三宝ですから。親御さんを大事にするのは人類のつとめ。
ただ、出家というのは古来より、親子間の私的な情愛を断ち切り、突き放すというドライな意味ではなく、「それぞれが独自の存在として」「親が子を尊重し、子が親を尊重する」というものです。そうでないと極端な例として、古来から存在する世間の毒親家庭のように子供を小さい頃から親のエゴでその子の人生を勝手に決めて制約してしまったり、お互いを尊重しないような関係になるからです。
親子間の家庭・個人のありかたと、出家者による親子間の「出家者のありかた」については人によって見解が異なるようです。
曹洞宗の御両尊の一人、瑩山禅師の師の徹通禅師は当時ではかなり最先端の方で
、お寺の境内に高齢者の養護施設を作り、親の介護もされていたそうです。
ですが、それも旧来の考えを持つ人たちによって反発もあったといいます。
僧侶の弁える課題・公案の一つに、中国のある禅師様のお話があります。

息子が出家して大きなお寺の住持職になった。
縁を切った息子とはいえ、母親は何としても会いたかった。ところが住職はここで私が母親と会うと、道心をもって出家した僧侶たちの意志を緩めることになると感じてか、会うことを断ったという。
「住職様は会われないそうです。」冷たい仕打ちに感じた母親はそこで悶絶死をしてしまった。懐からお米が一袋みつかった。御子息の禅師様に供養されようとしてとお持ちになられたのであろうと、禅師のもとに米袋が届けられた。
禅師様はそれを我が物にせず「典座寮(調理場)に持っていきなさい。明日の朝の少食で大衆に供養しなさい。」と。
仏道をこころざし、世の人々を善導する修行僧たちに布施、供養をすることで母も浮かばれるだろう、と。
僧侶になるということ、父母を敬うということ、法を敬うということ、僧侶として食事を頂戴するということ、色々考えさせられる内容でした。
僧侶として人として生きる上で今後の親子間の関係において「どうすることが」双方が本当に浮かばれるありかたであるのかを参究するための課題にして頂ければと思います。頂きます。🍚

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

そんなことないですよ

おはようございます。
宗派によりますが日蓮宗では聞いたことないですし大丈夫かと思います!
私も柴又時代に部下の僧侶のお寺に不幸があったとき、今すぐに自分のお寺に戻って手を合わせてあげなさいと指導しました。
ちゃんと最後をお見送り出来ますよ!

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個別相談可能
日蓮宗の僧侶をしております 祖山での修行、荒行を終え現時点での精一杯でお答えさせて頂きます まずは自分を好きになること、今の自分貶すのは仕方なくても今までの自分は認めてあげること 人生はピンポイントで見ると悲劇だけど、大局的にみると喜劇であるbyチャップリン 迷う時を凡夫と名付け悟る時をば仏と名付く 皆様のお悩みを一緒に考え少しでも悩みの手助けをできたら幸いです お寺に興味がある、個人的な相談が…とありましたら遠慮なくご連絡下さい 一緒に頭をひねってがんばりましょ!
九星気学や厄除け、憑物など。 個別相談は、hasunohaオンライン相談より受け付けています。お寺へ電話をいただいてもお返事しかねます。 またお越しいただいてのご相談は予約制となっております。

私は実父のお葬式の導師を勤めました。

もし山に籠っての修行中なら
お葬式に出るのは難しいでしょうね。

でも
そのような修行のない宗派もありますから
身内のお葬式が気になるなら
修行のない宗派の僧侶を目指してみては?

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 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

質問者からのお礼

ご回答本当にありがとうございました!
自分の身内に不幸が訪れても葬式に出席したりすることが可能ということを知り、とても安心致しました!
僧侶になるための勉強も頑張れそうです!
質問もお礼も日本語が下手でしたが本当にありがとうございました!

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