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往生還相について

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最近、家族を亡くして仏教の本を読むようになりました。
浄土真宗では、浄土へ往生すると、またこの世へ戻り人々を救うとあります。
浄土へ往生できても、また苦しいこの世へ生まれ変わるのでは、救われた気がしません。還相が、前世で学べなかったことへの機会が与えられる慈悲ということでしょうか。また、現世に戻って生きるなかで、ある人にとっては、私の行動が救いになるということでしょうか。

2022年8月27日 18:31

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「還相回向」とは仏と成りて再び娑婆へ還り有縁を導く教えです。

拝読させて頂きました。
ご家族を亡くされ、淋しいことと拝察致します。しかしそのことが縁となり、浄土真宗をひもとかれたのは尊いことと思わずにはおれません。

浄土真宗に説かれる「二種回向」、阿弥陀如来の本願力(必ず救うという誓い)によって、この世の縁尽きれば、浄土往生を果たし(往相回向)、直ちに仏と成って有縁を救いの道へ誘うべくこの世へ還って来る(還相回向)という教えです。

浄土往生を果たせば、この世の苦しみの一切から離れられ、今ここで感じているような不安感を抱くこともありません。

救いを悦ぶ身となって、阿弥陀如来のお手伝いをさせて貰うのだといただいています。その理が《この世へ再び戻って来る》ということです。

これは決して、再びこの世へ生まれ変わるということではありません。なので先に逝かれたご家族は、この世の我々には見えないけれど、今は仏と成って貴方を守り導いて下さっています。いずれ貴方も人を守り導くその身となるのが浄土真宗の教えです。

《追記》
恐縮するお返事を有難う御座います。拙い回答で、少しでもお役に立てていればと思っております。

人間とは、とても弱い生き物です。常に不安を抱えて生きているものです。ご家族のことを思えば、神社参拝やお神籤に頼らずにはおれないことは、とてもよく理解できますし、無駄な時間ではなかったと思います。

そういう私たちの現実や迷い、不安も受け入れて下さるのが阿弥陀如来の大慈悲心だと思います。

『歎異鈔』を学び始められたとのこと、嬉しく思います。私も折にふれ、ひもといております。

《追記》
おきもちを頂戴し、重ね重ね恐縮しております。大変有難う御座います。ともに浄土真宗を学ぶ仲間でありたいと、心から願うばかりでございます。有難う御座いました。

2022年8月27日 19:58
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浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧籍にあり、精神科病院で正看護師として従事し...
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浄土で悟ってからの還相

お釈迦様は、菩提樹の下で悟られて全ての悩み苦しみから解脱された後、40年以上にわたり人々のために教えを説き続けられました。
還相は、私達もお釈迦様のように、悟った後に、自らは成仏して幸せになった後に他人を救うものです。
成仏した後なので、自分自身の悩み苦しみは亡くなった後なのです。
また、極楽浄土では悟る(成仏)だけでなく、六神通を得られます。
つまり、他人を救うための能力も得られるのです。

2022年8月28日 13:39
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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

早々のお返事をいただきありがとうございます。
とても分かりやすい説明をいただき安心しました。

家族の闘病中は、全国の神社参拝やお守りをいただき、お御籤に一喜一憂しておりました。神社参拝が悪いとは思いませんが、もっと違う気持ちの使い方をすれば良かったと思っております。
浄土真宗の門徒でありながら、他力本願の内容すらあまり考えたこともなく、簡単に解説された歎異抄を読み始めた次第です。

僧侶、正看護師とご多忙のなか、悩みのある方に回答をされていることに敬慕いたします。ありがとうございました。

願誉浄史 様

ご回答をいただきありがとうございます。
還相することきは、六神通まで得られるとのこと、とてもありがたく感じました。

多くの仏が還相されて、私たちを見守っていただいているものと理解しました。
阿弥陀如来の本願力を疑ってはおりませんが、この世の中が見守られていると感じることは難しく、これからも学んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

「浄土真宗」問答一覧

浄土真宗における戒名について

先日祖母が他界しました。故人は浄土真宗大谷派です。曽祖母の遠縁にこれまでお世話になっていましたが、住職の健康問題があり今回の葬儀も対応いただくことができず先行きがわからないこと、体調不良の以前からも車で40分ほどの距離の法要をお断りされていたこと、葬儀や法要の際に酩酊や二日酔いのような状態で途中で退席することがあり、今後お付き合いできるか不安な点が多々あります。 母(亡くなった祖母の娘)はこれまでのおてつぎのお寺に関係から、法名をお寺にお願いすることを躊躇っています。母は不安を要素があるお寺にお願いするなら、祖母の人柄を知った上でで「釋尼幸楽」としたいそうですが、またこの法名が問題ないのか心配だそうです。そもそも戒名についての前提知識がないのですが、お寺から「頂く」べきですか?そもそも故人の遺族が(宗派のルールについて調べた上で)法名をつけることはできるのでしょうか? また、これまでお世話になっていたお寺(曽祖母の関係者)から、曾祖父のお寺に変えたい、と母が希望しています。地区名(都道府県、市、地区名)はわかっているのですが、存命のものがおらずお寺の名前がわかりません。どうにかして見つけることは可能なのでしょうか?可能性のあるお寺に聞いてみることは可能なのでしょうか?

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真宗の日ごろのお勤めをはじめたいです。

うまくいかない恋愛を前に常に間違える自分は相手を困らせ、自分も傷つくの繰り返しで、自分で判断するよりもまだいくらかよいか…と占いにはまって抜け出せなくおりました。(まだ抜けきってませんが。。) 恋愛に対して、よろしくないとか凶とかばかり出ていたのでしたが、それが念仏を唱えさせていただく契機になるのだから占いの上での人間的な欲望ベースの吉凶もあてにならないなと思えてまいりました。 悲しみ、不安、妬み、怒り、今はそうした感情が湧いてきたときに念仏を唱えさせていただきます。それから何もない時でもことあるごとに。 最近は、私につらく当たる上司も、報われず悲しい顔をしているあの人も、妬ましいと思ってしまった幸福そうなカップルも、馬鹿にして軽蔑してしまった人も皆、等しくともに極楽浄土へ向かい仏になるのだと思うとその方々の身の上にも念仏を唱えさせていただいている自分がおりました。 念仏をいただくとも阿弥陀様がもらすことなく私たちをお救い下さるというのになぜ、さらに勤行を重ねていらっしゃる方々がいるのかなんとなくわかった気がします。 この娑婆でこの私が今一歩、執着を離れ心穏やかに、(併せて周りの人も穏やかに)いられるためにもう一歩踏み込んでみたいと思っていますがまずなにをはじめたらよいでしょうか。 ただ、その行為自体にすがろうとか執着してしまうということは避けねばとは思います。 ちなみに、私の家自体は本家から離れ菩提寺もないのですが父方が大谷派、母方が本願寺派です。 (それにしても仏教は面白いですね。みんな根っこは同じでもお釈迦様の教えが多様に分かれていって、親鸞上人の教えもさらに多様に分かれていって。人の数だけ救われ方がある、のでしょうか?) ※すこしとりとめのない感じになってしまいすみません。

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浄土真宗に対するカルチャーショック

先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ