宗教と危険物は似ている。宗教よ、どこへ?
いつもお世話になっております。先日、こちらで、「お寺で、私に
だけあれこれ言ってくる怖い奥様」のご相談をしました。それの続きの
ようになるのですが、近頃、思った事があります。
「宗教と危険物は、似ている」
適切な管理と用法用量を守れば人の助けになるけれど、盲信…
つまり、管理方法や使い方を間違えれば、プシュー、ドカン。
その奥様は、博識で、元から教えたがりの性格のようです。
他の事を話すときは和やかに見えるのですが、仏事の事になると豹変、
「私の知っている事が正しい。私の知っている事を聞け」
といった感じの態度や表情になります。後からお坊様に尋ねると、
「ああいった作法やしきたりは、定めていないよ。そこまで、
こだわらなくてもいい」
と笑っています。もしかしたら、カルトなのかもしれませんが…
家に誘われたこともあるので。
宗教映画を手掛けた、カルト問題にも詳しいある映画監督さんが、
「宗教は、必要ではあるが、危険を伴う」
とおっしゃっていました。なるほどと思いました。
「いい」「悪い」の二極で言うと、宗教は、「いい」事を説いて
いるものでしょう。ですが、先述の奥様のように、「私たちが一番
正しい、一番いい」と盲信し、儀式行為等に執着する、つまり、
用法用量や管理方法を間違えると、宗教は、たちまち、「薬」から
「毒」…はたまた、「化学兵器」にもなりえると思います。
この奥様の延長線上が、新興宗教や、海外のテロ組織でしょう。
こちらの問答でも、しばしば、先生方が質問者様に、
「独学は危険なので、お寺のお坊さんに教わってください」
とご助言なさっているのをお見掛けします。
私は、独学の結果か、親鸞上人のお歌にあるような、誤った認識を
持っているご信徒様が多いように感じており、憂慮しております。
「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめ
つつ 卜占祭祀つとめとす」
拝む事だけ熱心で、何かが起きれば、全部「霊」や「神様、仏様」
のせい。祈りというより、たたり信仰。拝んでさえすればいい…
「薬」だったはずの宗教が、「毒」や「化学兵器」になりかけて
しまっている印象です。
半分、私の愚痴でした。どうにかしたい、でも、できない。
先生方のご高見、賜りたく存じます。
発達障害があるが、他の患者が苦手、健常者さんに負担を強いる障害者が許せない、 医師の悪口を言う僧侶が許せない、選挙で体調崩す、医師を顎で使ったり「薬減らせ」とごねる患者に辟易 #薬は悪くない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
正法とそうでないものの違いは何か?
宗教が悪いんじゃァなくて、そういうことをする悪党がわるいのですダ。
道元禅師という方は大変厳粛な方でございます。
仏教は仏教であってもニセモノに対しては容赦なし。(# ゚Д゚)
「違うものは違う」と大変厳しい姿勢で当時の仏教界を批判されました。
道元禅師のもとに慕ってくる人間でも名声欲・利権欲にカブレた人間は追放。
坐禅をする単の下の土まで掘らせて捨てさせた故事もあります。
改心したらまた受け入れましたが。
世間で仏教として知られてきた宗派の教えであっても徹底的に論破し教導されました。
今でいえば、いくら仏教や宗教の姿をしていたとしても「違うものは違う」という姿勢です。いいかげんな宗教は徹底的に論破したということなのです。
結果的に多宗派の暴徒から寺に火をつけられ命を狙われるという事態になりました。坊さんの姿をした連中が命を狙いにくる、寺に火をつけるというのがおぞましい光景ですね。今のカルト新興宗教の暴徒とかわらないということです。
喩え世間によく知られた宗派であってもその中の構成員は人間。
ただ単に組織を利用して自分の我欲を満たそうとする輩もいるものです。
当時も沢山の仏教団体があったにも関わらず、多宗派、他の仏教団体を敵に回して命を狙われてもそれらを否定して本当の純粋仏教を求めたのです。
では正法、真の宗教性とは何か。
組織の為でも宗派の為でもなく純粋に人が救われる内容であり、万人を救う内容を持ったものです。この世に存在する本当に研ぎ澄まされた良き水は人を選ばず渇いたのどを潤します。条件付けがありません。
ところが昨今の宗教・宗派というものは人を選ぶ。条件付けがある。根拠のないanoyo思想めいたものが多い。それでは理知的な人は救われないでしょう。
世間で宗教と思われているものは道元禅師や物事の本質を見抜く明晰な方々からすれば「あれは宗教でも何でもない」ものなのです。
だって、やってることを見てください。
金稼ぎ、票集め、人だまし、家庭崩壊。
どうして人を蹴落とすようなものが宗教なものでしょうか。
つまり、私たちの側に宗教だからどうだこうだ、ではなくどんなものであれニセモンはニセモンだと見抜く目こそが本当の明晰な宗教精神・宗教性なのです。絵空事でたぶらかすものは私は宗教などとは呼びたくもありません。
宗教と名乗って危害を加えたり利権を奪う輩はカルト精神です。
素晴らしい気づき
素晴らしい気づきですね。
仏教は月を差す指にたとえられます。
月(真理)はあそこだよと指で方向を示してくれる人がいても、教わる側が指にこだわって指ばかり見ていては月が見えませんね。
その怖い奥さまは、指にこだわりすぎて月を見ていない可能性もありますね。
初めに我が身の程を信じ
拝読させて頂きました。
その方はご自分の信じていることやご自分のしていることに慢心しているのです、つまりはエゴです。それでは仏様の教えからどんどん離れていってしまいます。自分が正しいと思った瞬間からどんどん仏様の教えや真理から離れていってしまうのです。
かくいう自分自身がそうなのです。
法然上人のおしっしゃる「初めに我が身の程を信じ」はそんな愚かな自分自身であること・自分では一切救われることのないと自覚することが初めです。仏様を信じれば信じるほどに弱い小さく愚かな自分であることが分かると思います。
その様な愚かな我が身の上を心から知れば決して他を威圧したり、暴言や暴力を振るったり、攻撃したり争ったりすることをできません。本当に危険なのはその様な愚かなこと悪しきことを考え言葉にして行動してしまう私達自体なのです。つまり危険物とは私達自体です。
「実るほど頭の下がる稲穂かな」です。
仏様にもどなたに対してもどの様なことに対しても、常に誠実に謙虚に正直に頭を下げる心が信仰の実りとなって我が身も深まってくるのではないでしょうか。
「人の振り見て我が振り直せ」ですね。
その人の在り様や言動を参考になさっていきましょう。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
クスリ⇔リスク
個の解釈や価値観が差し挟まった瞬間から歪みはじめる…世を構成する真理の全てにおいて、これは共通の事象なのだと思います。
と同時に昔から何度も”起きては消え”を繰り返したであろう、ある意味とても泥臭い人間的な営みなのでしょう。
一切皆苦。宗教も浸かりすぎて盲信すると、それもまた同様に苦に繋がるのは皮肉なことですね。
事に当たって「良し悪しの判断」は必要であろうか。我々も今一度初心に還って日々を行じたいものです。
ご相談ありがとうございました。合掌。
※お礼へ
何事も適度に、いい塩梅で調整するってのが大事ですよね。オーバードーズに気をつけましょう。
質問者からのお礼
【願誉浄史 先生】
お返事いただき、ありがとうございます。
「指」と一口に言っても、様々な指がありますよね。長い指、
短い指、角ばった指、丸い指…日本の仏教の各宗派や、その修行法は、
そんな個性豊かな「指の形」なんだと思いました。
昔、ご本山のお説教の会にお参りしていたのですが、集まって
いるご信徒様たちの大半が、「指の形」に固執していました。
果ては、布教師さんまでも…
「俺たちのやる行をやらないと、お浄土にはいけない」
「俺たちのやる行をやらないと、地獄に落ちる」
「俺たちのやる行をやっていても、途中で違う行をやれば、行の
ご利益が、みんなパアになる」
「俺たちのお浄土、宗派が一番。他はクソ」
などと平然と言い放っていました。私も当初は、盲信していました。
しかし、hasunohaで、同じ宗派の別の先生方とやり取りしている
うちに、「あれは、違う」と気付くことができました。馬鹿らしく
なり、それきりお説教会には行っていません。やり方やお浄土…
つまり、「指の形」は様々なのに。
「あなたの指は、角ばっていて短い。月を指し示す資格がない」
というわけではないと思います。少なくとも、84,000種類の指の
形があるのに。
【TAIKEN 先生】
お返事いただき、ありがとうございます。「薬も過ぎれば毒と
なる」。 私の宗派の行は、非常に簡単なものです。いわば、
ちょこっと舐めるだけで、あらゆる苦痛も、病気も、怪我も
治してしまう特効薬です。しかし、ほんの少しで効く薬と
いうのは、少しでも飲みすぎれば、有害作用や毒性が出ます。
願誉先生へのお礼でも述べましたが、それゆえ、ご信徒様の
大半は、この薬に泥酔しました。お坊様をお医者様に例えると、
「うちの病院と、ここで出してくれる薬が一番!他の医者や、
他の薬はクソ」
「他の病院で出る他の薬は、有害、もしくは意味がない」
と、まるで、フードファディズムやニセ科学の狂信者のようでした。
しかし、これは、私の宗派だけで言える事ではないと思います。
質問文にも書いたような事が、世の中で横行しています。
「信ずるものは救われる」という言葉を歪曲し、自称「信徒」
たちは、全ての物事を、「見えざるモノ」のせいにして、自力で
動くことを放棄しています。誤解が、どんどん進んでいる。そんな
印象です。
人々を草葉の陰から応援し、現実的な行動を促すはずの存在であり、
行動の象徴でもあった神や仏が、ほんの一部から感染症のように
広がった誤解から独り歩きした神秘論によって、怠惰や恐怖を
与える存在に作り変えられてしまった…本当に、皮肉なものです。
【丹下 覚元(たんげ かくげん) 先生】
お返事ありがとうございます。あの、宗教が「危険である」
ではなく、「危険物に『似ている』」と申し上げたつもり
なのですが…私の書き方が悪かったのでしょうか。
誠実な宗教施設は、お布施を包んで渡そうとしても、時には、
「受け取れません。ご自身のためにお使いになってください」
「多すぎます。半分だけ頂きます」
と言って返してくださることが多々あります。
しかし、おっしゃる通り、カルト教団や、人を欺く
自称「神通力者」が多々存在するのも事実です。厄介な事に、
そういった人たちは口がうまく、声も大きい。誠実なお坊様方が
「大丈夫ですよ、安心してください」と真心で説いても、
そういった輩は、「〇〇をしないと大変なことになる!
僧侶たちは間違っている!だから私に任せなさい」と言って、
最初は無料、次は少額、回を重ねるごとに増額…クライアントは、
まるで茹でガエルのようにされます。
現在の伝統宗派のお寺が、全部人を選ぶ死後思想信奉主義とは
思いませんが、確かに、カルトや自称「神通力者」に声を掻き
消されてしまっている感じは否めません。もう少し、「大丈夫
ですよ、安心してください」を、大きな声で言ってほしいと
思います。
【Kousyo Kuuyo Azuma 先生】
お返事いただき、ありがとうございます。
「私は、危険物だ」という考えは、私も常日頃持っています。
人は、低きに流れるものだと聞きました。自分の脆弱さを
認めつつ、それでも諦めることなく、できる限り、謙虚、誠実、
正直さを忘れず、常に、実りを得るため、あらゆる方面で努力する。
弱いからこそ、己が身の程を正しく把握する努力をし、それに
応じて精一杯の事をする。その気持ちを忘れたくないと思います。
仏教学者さんではないのですが、とある学者の先生は、
「僻みや妬み、悪口を娯楽とする人は、自分自身を高める努力
から、目を背けている人です。彼らは、そのときは楽しくても、
悪口は回り回って自分に帰ります。自分を高める努力をしていない
ので、年単位で、自分のほうが生きづらくなるのです」
とおっしゃっています。「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」の
逆バージョンですね。SNS等でも、マウンティングをしたり、
荒らしをしている人を見ますが、私を直接取り巻いている人たち…
とても勤勉で、「エリート」と言われる人もいるのですが、
彼らは、悪口を一切と言い切ってもいいほど言いません。
自分を実ったように見せる方法には二つあると思います。
一つ目は、「本当に実を付ける」…努力をして、スキルや大らかな
心などを身に着ける。二つ目は、「自分より実の少ない稲を探して、
自分のほうが実が多いことを誇示する」…悪口や威圧、マウント
です。人生という長期間で見ると、一つ目の方法が、断然に
自分の為になるでしょう。二つ目の方法は、努力の癖が付いて
いない、根を伸ばす努力をしていないため、かえって自分が
生きづらくなるでしょう。
私は、常に根を伸ばし続けて、いつか、立派な実をたくさん
付け、「見事な稲だ」と皆さんから愛でていただけるように
なりたいものです。