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生きて何になるのか

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諦めては毎日昼まで時間など無かった事にしてきました。
子供達を送った後、何も考えたくなくなるから。

最近では壮絶な虚無に襲われて 奇声を放つこととか頭をそこら中に打ち付けることは無くなったけど

生きて何になるのかわかりません。

ナルコレプシーで薬が全部効かなくて アルバイトなど出来ない私は

家事をしていると泣けてきます。涙ナシの虚し泣きです

家事など向いてはいない。 生きていくにはある程度掃除や洗濯が必要だろうけど

だからってー体それがなんだっていうんでしょう。

こんなくだらないことが息子為だとは思えない

よくいろんな偉い人が家事をこなすことが徳を積むことになるとおっしゃいますけれど

私には到底くだらないことにかわりございません。

漠然とですけど以前から世の中の全てがかけまちがってる気がしていました。

それはこの世の中に金があるということ自体間違いでは無いか という事です。

なんだか全てが馬鹿バカしくてなりません。

生きていったい何になるんでしょうか。

 


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

壮絶な虚無!!

初めまして。
藤波と申します。

壮絶な虚無!。
貴女はこれに打ちひしがれておられるのですね。

そう…僧侶の私であっても、同じ感覚になるのです。
俺は、なんでこんなことしてるんだろ?!ってね。

でもね、その瞬間は私が仏様を忘れている瞬間でもあるのです。
すずちさんのおうちの御宗旨がどの宗派かは存じ上げませんけど、
私は浄土真宗、
阿弥陀如来という仏様が見守っていて下さると頂く宗派です。

阿弥陀如来という仏様は、
すずちさんや私のことを同じ立場で見ていて下さります。
壮絶な虚無…その気持ちになってしまう私たちのことを、
ああそうだったのか…と、一緒に涙を流して下さるのです。

すずちさんが送り出されたお子たち、元気で学校へ行かれるのでしょう。
その当たり前の情景の中にいながら、自分のこの虚無感…。

カネに対する嫌悪感、これもイヤでイヤで仕方ないのですね…。
そのお気持ちもよくよく理解できます。
「金が仇の世の中」という言葉すらありますから。

そういう貴女の気持ちを全部受け止めて下さるのが、
絶対慈悲の仏さまなのです。

仏様の姿をちょっと探してみて下さい。
ネットでも本屋さんでも、近くにお寺があるならそこにでも…。
そのお姿をじーっと向き合って、思いの丈をぶちまけたら良いのです。

生きてるのが一体なんになる、
じゃあ、死んだらそれで解決されるのかというと、
そうでもなかったりするのです。
そのことを姿形だけを示して教えて下さるのが、
色んな仏様なのですよ…(^_^)。

すずちさんへ…

http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/  西本願寺 法話のサイト

http://hongwanji-shuppan.com/  浄土真宗の本

西本願寺(浄土真宗本願寺派)のサイトです。
よろしかったら、覗いてみて下さい。
ヒントが見つかるかも知れません…♪♪

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モットー 「寺は心に溜まったゴミを捨てに来る所」。回答数は決して多くありま...

洗い物をしているだけではないはずです

禅寺では台所の仕事が一番大変でござる。
ご飯一食作るの2、3時間、修行僧共(笑)は食べるの5分ですから。
たぶん、すずちさん以上に凹みますよ。
洗い物も沢山。200人前×器5個+調理器具ですので1000個ッス。だから、むなしい気持よくよく、超~分かります。
「おれ、こんなに洗い物ばっかりやっていてよいのだろうか」とか考えます。
格好良く言えば、洗い物と言うのは洗い物だけをしているだけではありません。人間的なスキルも向上し、要領も脳みそも良くなっていっています。おまけに家事はどれ一つをとっても子供を人物に育てていくためのオトナの大切なサポートです。私にとっては心を動かさない修行です。
最近は私は洗い物の時(ウチでは手荒れがひどい妻に変わって私がやっています)いかに自分がスムーズに洗い物をこなせるかにウットリしています。(笑)
ゲーム感覚でやると楽しいですよ。
デカいタライを二つ並べます。
①食後特大トレーに食器をすべて乗せる。手際の良さにウットリ。
②残り物はゴミ箱か畑に直行。思い切りの良さにウットリ。
③片方のタライに水をはっておきます。エコな自分にウットリ。
④その中で残飯をおとし反対側のタライにいれます。効率の良さにウットリ。
⑤水を流します。水に感謝する自分にウットリ。
⑥洗い用スポンジで軽く撫で洗い。その速さにウットリ。
洗剤は泡立ちよく水切れの良いキュキュットかジョイをお勧めします。
⑦タライの中で水を流しながら漱ぎすすぎ用スポンジで漱ぐ。すすぎ様スポンジという発想にウットリ♡
⑧ひっくり返して窓の近くで自然乾燥。次の食事の時には乾いています。
拭かない、という発想にウットリ♡床、水浸しベットリ。拭いてスッキリ。
くだらない、と思ってしまうのは、それをくだらなくしている自分があるのです。
それはモノに対する拒絶、否定、打消しの意識ですが、あなたがそれによって打ち消されたような経験があるのでしょう。
生きていく上では食事、洗濯、何をとってもみな自分と深く関わっています。華やかさこそないかもしれませんが、やっているのは自分の活動です。自分の活動、行動を愛すべきです。
→ facebook内の「幸せ頭脳養成所」「TOKYO禅」(無料)にご参加頂き、発想転換をしましょう。(^

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丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...

でも、生きているから大丈夫(^O^)

おっしゃる事良く分かります。

私は、僧侶と縁を結ぶ前、若かりし頃、突然、大切な人を失い 一年近く泣いて叫んで生きていました。

僧侶になり、ある業者に多額のお金を持ち逃げされ、

短い人生ですが、何度も何度も生きている意味が分からなくなりました。

今思うと、情けないですがせっかくの命を終わらせようとさえしてしまいました。

ふと、気が付いたのは、私は、独りでは無いと言う事さた、今、この命有るのは、多くの命の偶然が重なっているのだと。
もし、たった一人でも、ご先祖様が、いなかったら。

今、私に命が、有る事の尊さ、有り難さを実感しました。

それから、人生が、変わりました。

すずちさんは、凄いですよ、そうおっしゃっても、きちんとなさるべき事をなさっている。

素晴らしいです。

嫌な事はいや、嫌なものは嫌、嫌いなもの、嫌いな事、よいじゃないですか。

叫んでも、泣いても、悩んでも

どんなに泣き続けて、泣き叫んでも、涙は枯れません、枯れたら楽なのにと、何度も思いましたが、生きているから枯れません。

大丈夫、生きているから、
(^O^)

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長谷雄蓮華 (ラジ和尚)
ラジオ パーソナリティ 『 命の 相談会 』開催 愛知県愛西市...

虚無から幸せの奇跡を感じ取って下さい!

文章から、あなたの辛さがまるで飛び出して来るようです。
本当にお辛いのですね。

私はあなたではありませんから、その辛さが解るとは申せません。
しかし、咆哮するほどお辛いと言う事は伝わって参ります。

すずちさんの文章を読ませて頂いて、私なりに感じた事を書かせて頂きますね。

まず、辛いというお思いから辛い事しか見えなくなってはいませんか?
世の中には悪い事と良い事は必ず1つの中にごちゃ混ぜにあるのだと思うのです。

例えば、ちょと不味くて苦い食べ物を食べちゃったとします。
それは口では嫌な事ですよね。悪い事ですよね。
でも、その食べ物が身体にはとっても良くて体中から力が湧いてスッキリした気持ちになったとしたらそれは良い事ですよね。

そんな風な事も一面だけを捉えると、良いとか悪いとか どちらかだけにになってしまうわけです。

おまけに我々人間は、目先の事しか見えませんから、自分が生きていると言う事に多くの働きがあったとしても気がつかないのです。

例えば、電車に乗り遅れて会社に遅刻するとしてそれは悪い事ですよね。
でも、その電車に間に合っていた場合に途中で交通事故に遭っていたかもしれません。もし、それを避けられたとしたら、電車に乗り遅れたという事は奇跡です。
遅刻したと言う時点でそれは決して解らない事ですけどね…。

そういった目に見えない奇跡、全ての命を統合した大いなる命の大きな働きの意思というものがあると私は思っています。
そして私はそれが仏さまだと思っているのです。

自分の小さな見識による価値観では、とても人生の価値など解るものではないと思いますよ。
ましてや生きる価値なども、簡単に言えるものではないと思います。

辛い事の中には必ず「楽しい」や「嬉しい」も内在していて、それに気がつけばそこから「楽しい」「嬉しい」が飛び出して来ます。

そして辛い想いを全て仏さまにお預けして、何か少しでも楽しく感じる事を探してみて下さい。

追記:斜に構えて嫌な自分を、あえて味わい尽くすのも味のある人生かもしれません。

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仏道に入門して36年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...

質問者からのお礼

  藤波 蓮凰さま

ありがとうございます。教えて頂きました事はどんな本に載っているんでしょうか。

図書館などにあると助かるのですが‥

  藤波 蓮凰さま

ありがとうございます。教えて頂きました事はどんな本に載っているんでしょうか。

図書館などにあると助かるのですが‥

藤波 蓮凰さま

早速Webサイトをありがとうございます。助かります。

悟東 あすかさま

ありがとうございます。この年まで生きていたら自分なりに思いあたる事が無いわけでは無いのですが‥

育った環境が努力することを禁じられた環境でしたのでー回自殺未遂してます。

楽しかったり嬉しかったりしてもそれがー体なんだってゆうんでしょうか。

有り難いことだとしてもなんだかまるでバカみたいです。

結局私はクソなんです。

もう心が自分のいうことをききません。大事な事や必要な事を察知すると頭がそっぽ向くように

仕向けられていて自分で自分でどうにか出来ません。

その癖、食べ物は自分の好きな物を選んで食べれる こんな都合のいい精神病ありますか。

自分でも自分に呆れかえります。

長谷雄蓮華さま

自分の辛かったことを話すのは何故だか恥ずかしくあったり、他人から揶揄されるかもしれないのに

私の為にすみません。 長谷雄蓮華さまに小泉八雲の生き神を想ってしまいました。

私は脳天気な自分に自分で呆れています。結局私は渓流をさかのぼれずに力つきて死んだ魚と同じなんです。

厳しい現実の襲来がある日まで適当に生きときます。

でもなんかスッキリしました。ありがとうございました。

「生きる意味」問答一覧

生きることに価値はあるのか

はじめまして。突然の独白失礼致します。 私は、常に悩みの中に居ます。 自分には生きている意味や価値があるのか?と言う問いはよく耳にしますが、私は生きていることそれ自体に意味や価値があるのか、と言う問いをずっと胸に抱えております。 意味も価値も所詮は人間の決めた尺度であり、それは誰かから与えられるものでは無く、自らの生の意味や価値は自らが決めるしかない、と思う一方で 人間を全体として見れば、やはり人が生きることに何らの意味や価値も無い様に思えてしまうのです。 個人は、死と言う終着点があるからこそ、種を紡いだり、意志を遺したり、自らの存在を個として終わらせず、何かを遺そうとするのだと思います。 果たして人間全体を個として見た時、その終着点が何処にあるのか、それが分からない為、煩悶してしまうのです。 もしかすると、100年後には全てが無くなっているかもしれません。それは1000年先のことかもしれないし、明日のことかもしれません。 いずれにせよ、始まりのあるものには、終わりが来る訳ですから、全体その時我々人間が紡ごうとしていたものは、どうなってしまうのでしょうか。 何かを遺そうとしても、それを受ける人間が居なくなってしまうなら、果たしてその行為に意味はあるのでしょうか? 私は、価値の源泉は希求にあると考えます。 価値があると信ずるからこそ、そこに価値が生まれるのだと。 だからこそ、私は自らが信じられると思ったものを必死に追い続けて来ました。 しかし、上記した様な考えが頭をもたげると、どうしてもそれが揺らいでしまう瞬間があるのです。 これは、私の心が弱いからなのでしょうか? 私がいつか答えに出逢えるとするならば、それは私の都合の良い解釈なのか、或いは本当の答えが未だ見ぬ何処かにあるのか。 私には、もう何も分かりません。 信ずる道を行かれるお坊様に、どうしてもお聞きしたくて、此処に書かせて頂いた次第でございます。 末筆ではございますが、長く読み辛い文章になってしまったことをお詫び申し上げます。 また、最後までお読み頂いたことに感謝致します。

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「生きる意味」は意味があるのか

「生きる意味を探そう」などといった啓発がよくなされていますが、そうやって見つけた生きる目的には何の意味があるのでしょうか。 いずれ無くなるであろう地球(現世)で、どうやっても百余年で死んでしまう私たちが、「生きる意味」をもって行動したとしても大局的には意味のないことだと思ってしまいます。 小さい頃、自分は歴史に名を残す偉業を成し遂げたいと思っていました。しかし年を重ねるにつれ、そんな社会貢献ができたとして何になるのかを強く考えるようになりました。偉大な結果を残したとしても、自分が死んだらその後の世界を見ることはできない(自分の功績の影響は認知できない)し、世界が終われば無に帰します。「生きる意味」と思っていたものの意味がなくなるように感じてしまいます。 これは「そんな偉業は成し遂げられない」という諦観がそうさせている面もあるとは思いますが、「自分が起こした行動が現在、そして死後の未来に影響を与えたとして、だから何になるのか」を強く考えていることに変わりはないです。 こう考えることで、生きる意味も、それを探すことも無意味に思えてしまっています。 生きる上で苦痛が耐えないこともこの考えを助長しています。なぜ人は苦しみがある中でも生き、この社会で何かを残そうとし、命のバトンを繋いでいくのでしょうか。また、何かを残そうというモチベーションもなく日々を生きている人々は、どんな「生きる意味」をもって生きているのでしょうか。 私自身は、生きる上で生じる苦痛を上回る「生きる意味」を未だ見つけられていませんし、「生きる意味」を見つけるために努力することも億劫で、苦しいのでしたくなくなっています。こんな思いを抱きながら生きるより、すっと消えてしまえた方が楽なのではないか、という考えすら頭に浮かび、数か月離れないので、ここに思いの丈を書かせていただきました。 とりとめのない話になってしまいましたが、よければこのことに関する仏教に基づいたお話をお聞かせください。よろしくお願いいたします。

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地獄を繰り返すために生まれてきたのか?

この世界で生きる意味について聞きたいです。 私は親がいつも怒鳴りあう家で生まれました。父親は自分の思い通りにならなければ許せない人間で、いうことを聞かなければ暴力と金銭を振りかざします。それは自分に対しても同じなので黙って言うことを聞き、こんな男にはならないと誓いました。しかし、約束を守ってくれない母親や姉に私が普通の声で怒ると二人から父親のようだと軽蔑されました。彼女達もいつも大声で怒鳴りあうのに。その頃から「自我や感情を持ってはいけない」という思いが生まれ「親父のようになりたくないから、人の気持ちを優先するようにしよう」と決めました。 それからは家でも、学校でもピエロのように本気にならない人間を目指し、人から馬鹿にされても何を言われても「俺は怒らないし、正しく判断できる人間じゃない」と思って生きました。でも、高校の終わりごろから他人から求められる自分像を維持することが難しくなり、まともじゃない自分に自信を喪失してしまいました。 このままではいけないと思い、大学からカウンセリングに行きはじめ改めて原因が家族関係にあることに気づきました。そこで認知の歪みをなくせば「まともな人間」になれると思い、自分の認識や考えに疑いを持つようになりました。その中で、経済や歴史・宗教などを知り、「まともな人間」は作られたものだとそこでやっと気づけました。 ですが同時に、人は生まれてきた時点で他人や他の動物のポジションを奪う生物で、欲や自我をなくせないこと・自分は親より弱かっただけということを思い知りました。この世界では、もし大切な人が出来ても、自我がある以上相手を思いやるようで自分のことしか考えることはできません。自分が自分でいると、誰にでも平等にはできず昔の自分のように奪われる人を作りだします。 言いたいことを言い他人を別の生き物のように扱うサル山の大将のような人間が持て囃されます。俗にいういい人は基本的に特定の人達に優しい人です。それがこの世です。 ずっと苦悩し、皆幸せになる方法はないのか考え続け堪えてきましたが、知識や知恵がつく度それが不可能であることに失望するばかりです。もう疲れました。 きっと社会で生きていくには、世界を受け入れサル山の大将のように好きに生きるしかないんだと思います。だとすればこの世は地獄でしょうか?されたことを繰り返すしかないんでしょうか?

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生きる意味を見いだせません

鬱病を発症し編入した大学を中退、現在は唯一持っていた保育士の資格を生かし上京してひとり暮らしをしています。 この時期になると所謂五月病といいますか、季節型うつ病と言いますかで体調を崩しやすくなっています。 元々歓迎されていなくきつく当られている人権侵害もある職場に迷惑をかけてしまい、申し訳無さでいっぱい、また陰口が怖いと思っています。 駄文を書きましたが以下が相談です。 先程、祖父が危篤状態であると連絡が入りました。 数ヶ月前に妻をなくし、流行病下でも頑張って1人で生きていた祖父です。 「健康でいられるうちが花」と語っていた祖父は、私の精神病を理解してくれない人でした。 しかし、こうして祖父を目の前にすると、私が生きていて良いのか、みんなのために祖父の方が余っ程生きていた方が良いのにと思ってしまいます。 僅かな時を思い、そばにいられる事は幸福であり、今を一生懸命生きて欲しいし、まだ先に亡くなった祖母に連れて行って欲しくはない。 でももし亡くなったとしても天寿を全うできたなら祖父は、幸せであった、後は仏様がきっとお導きくださるとは頭では分かっています。 しかし、中退で余分に親に迷惑をかけ、鬱病で心配をさせ、脛を今でも齧っている私が想っても良い感情なのか、分かりません。 職場でもろくに貢献できず、生きる価値もないと言われ、また自分でも思っています。 そこで、「生きる」とはなんなのでしょうか。 素敵な親から「生」を受け取った私が死にたいといい、こんなにも生きてと願われてる祖父が「生きている」かの縁にたっています。 私には「生きる」の価値が分からなくなってしまいました。 こんな自分が情けなくも思います。 乱文失礼しましたがよろしくお願い致します。

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