ヴィパッサナー瞑想での自我暴走
私は精神疾患を持っていますが性格みたいなものだと医師から言われています。
質問ですが、ヴィパッサナー瞑想を行っていて逆に精神疾患の症状が悪化したり自我、我が逆に強烈に強くなってしまうのはなぜでしょうか?
メカニズムというか原因といいますか・・・
またその状態におちいった際の対処も教えて頂けると助かります。
この反動みたいなものが日常生活にも影響がでてきて非常に困ります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
修行「しよう」とする過剰な能動意識がかえって障りになるケース
仏教の指導法には、その指導法「A」が正しかったとしても、
それを聴いておこなう本人が指導法「A」の趣旨とは異なる「B」の方法を知らずに無自覚ながらにおこなっているということがしばしば起こります。
たとえば、お釈迦さまの話や悟った人の話を100人が聴いて80人がその修行の方法=自分の心の正しいおさめかた=正しい運転法が明らかになったとしても!…残り20人は残念ながらわからなかったとします。
その20人の方は誤解であったり、聞き違いであったり、本人の思い込みが強かったり、受け取り方が異なっていたり、やり方がズレていたりと様々な理由が挙げられます。
現代でもSNSの発信で「A」という情報を第三者がまるで違う「BCDEF…」と受け止めてしまったり、炎上するということが日々どこかの世界で起こっているように、情報というものはその真意が正しく伝わるということの方がまれであると言ってもいいでしょう。
仏教の修行法の多くはおおよそ無我を目指すものなのにその手法が「我」「我をベースとした手法」を用いているというものです。泥を洗い流すのに泥水を用いていればきれいになりません。
心に対して静かになれ静かになれ静かになれ!という運転をしているとしたらその静かになれというアクセルペダルは完全に自我・エゴ・わたくし・能動意識の運転法でしょう。
心を鎮めるのにアクセルを踏めとは言ってない。ニュートラルにしましょうと言っているのにアクセルを踏めば動きが鎮まらないのは当然です。
そもそも修行というものは「こうするべきだ」「こうしなければならない」「この状態をキープしなければならない」という意識が強すぎてもそれはエゴ・我・自我の働きだったりします。
私も曹洞宗の本山で坐禅堂で何年坐ってもピンと来なかったのですが、修行僧たちとは離れた場所で一人、壁に向かわず足も崩したときはじめて坐禅が坐禅になりました。それまでは坐禅の形はしていても違うことを心でしていたということなのです。「やること」があったら、それはヴィパサナも坐禅も念仏ももろもろの瞑想・禅定もチョイとズレているということを今、そこで弁えるべきです。
ああ、自分は心の波を鎮めようと水面に手を突っ込んだままだったと。そういう話は聞いたことがあっても、それをやれていなかったということが、ハッキリすると本当に要領・要点が明らかになると思います。
質問者からのお礼
丹下 覚元(たんげ かくげん)様
お言葉非常に助かりありがとうございました。
あまりにも難しすぎて私にはまだピンと来ませんでした。何を自分は間違った運転をして瞑想しているのか。これからの人生何度も読み返して参ります。
とにかく今は我が強くなりすぎて周りに多大な迷惑がかかってますので瞑想を一時中断しようと思います。
何も考えてないときに目的も持ってないときに自然な流れとして瞑想しに行くようにしてみます。
最後に追記失礼致します。
これより形式に囚われず、情報に流されず無我を目指した瞑想をしていこうかとおもいます。本当に有り難いお言葉でございました。