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ヴィパッサナー瞑想での自我暴走

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私は精神疾患を持っていますが性格みたいなものだと医師から言われています。

質問ですが、ヴィパッサナー瞑想を行っていて逆に精神疾患の症状が悪化したり自我、我が逆に強烈に強くなってしまうのはなぜでしょうか?
メカニズムというか原因といいますか・・・

またその状態におちいった際の対処も教えて頂けると助かります。
この反動みたいなものが日常生活にも影響がでてきて非常に困ります。

2022年10月2日 8:05

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

修行「しよう」とする過剰な能動意識がかえって障りになるケース

仏教の指導法には、その指導法「A」が正しかったとしても、
それを聴いておこなう本人が指導法「A」の趣旨とは異なる「B」の方法を知らずに無自覚ながらにおこなっているということがしばしば起こります。
たとえば、お釈迦さまの話や悟った人の話を100人が聴いて80人がその修行の方法=自分の心の正しいおさめかた=正しい運転法が明らかになったとしても!…残り20人は残念ながらわからなかったとします。
その20人の方は誤解であったり、聞き違いであったり、本人の思い込みが強かったり、受け取り方が異なっていたり、やり方がズレていたりと様々な理由が挙げられます。
現代でもSNSの発信で「A」という情報を第三者がまるで違う「BCDEF…」と受け止めてしまったり、炎上するということが日々どこかの世界で起こっているように、情報というものはその真意が正しく伝わるということの方がまれであると言ってもいいでしょう。

仏教の修行法の多くはおおよそ無我を目指すものなのにその手法が「我」「我をベースとした手法」を用いているというものです。泥を洗い流すのに泥水を用いていればきれいになりません。
心に対して静かになれ静かになれ静かになれ!という運転をしているとしたらその静かになれというアクセルペダルは完全に自我・エゴ・わたくし・能動意識の運転法でしょう。
心を鎮めるのにアクセルを踏めとは言ってない。ニュートラルにしましょうと言っているのにアクセルを踏めば動きが鎮まらないのは当然です。
そもそも修行というものは「こうするべきだ」「こうしなければならない」「この状態をキープしなければならない」という意識が強すぎてもそれはエゴ・我・自我の働きだったりします。
私も曹洞宗の本山で坐禅堂で何年坐ってもピンと来なかったのですが、修行僧たちとは離れた場所で一人、壁に向かわず足も崩したときはじめて坐禅が坐禅になりました。それまでは坐禅の形はしていても違うことを心でしていたということなのです。「やること」があったら、それはヴィパサナも坐禅も念仏ももろもろの瞑想・禅定もチョイとズレているということを今、そこで弁えるべきです。
ああ、自分は心の波を鎮めようと水面に手を突っ込んだままだったと。そういう話は聞いたことがあっても、それをやれていなかったということが、ハッキリすると本当に要領・要点が明らかになると思います。

2022年10月2日 9:41
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元(たんげ かくげん)様
お言葉非常に助かりありがとうございました。
あまりにも難しすぎて私にはまだピンと来ませんでした。何を自分は間違った運転をして瞑想しているのか。これからの人生何度も読み返して参ります。
とにかく今は我が強くなりすぎて周りに多大な迷惑がかかってますので瞑想を一時中断しようと思います。

何も考えてないときに目的も持ってないときに自然な流れとして瞑想しに行くようにしてみます。

最後に追記失礼致します。

これより形式に囚われず、情報に流されず無我を目指した瞑想をしていこうかとおもいます。本当に有り難いお言葉でございました。

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