般若心経の唱え方
大学生です。
最近心が不安になったときなどに、般若心経を唱えています。なぜ般若心経なのかというと、むかし母とお仏壇に向かって唱えていたので、覚えていたからです。特に宗派などはありません。
何度も唱えているので暗唱はできるようになったのですが、意味を特に理解しながらは唱えられていません(調べてもすぐ忘れてしまいます)。
そこで質問なのですが、お経というのは意味を理解しながら信念を持って唱えないと意味を成さないものなのでしょうか。
長い間気になっていたので、教えていただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「( ゚Д゚)子供に説いてみろ!それが出来たら本物だ!」
子どもの頃、お経は読めるようになったものの師匠と一緒に棚経へ行ったり、あるいは一人で読経をしたものの、わたくしごときがお経を読んだところで一体何がどう良いのか有り難いのか?むしろ申し訳ない気持ちになりました。
坊さんでもお経を読むのに意味も分からず上げている人は多いと思いますが、普通にシラフに考えて何やってんだろうと思いませんかね。
自分でも意味も分からんことをオウムの物マネのように唱えて何がどう有り難いものでしょうか。それでもいいという人もいるでしょうが、私は(私個人の感想ですが)それでは許せないタイプの人間でした。
そもそもお釈迦さまはお経を読んでいない。生のお経。生の真理。生の教導をされた。現代の坊さんや仏教者はどうか?
随分と怠けているように思えませんか。
ここで、そうだと思える人であれば、その人はお経をきちんと血の通ったものにすればよいのです。
お経は読むだけのものではなくなる。
やるお経になる。
実践するお経になる。
その内容を会得して表せるようになれる。
レシピだって楽譜だってノウハウ本だって音読だけしていればいいというものではないでしょう。
優れたスピーチ能力のある人が国語の教科書の音読をし続けていれば、だんだん気持ちを込めて言葉を発せるようになる。俳優やアナウンサーや声優にもなれる。さらには声を用いて人を勇気づけたり、救える力を持つようにもなれるはずでしょう。そのくらいの夢や希望や菩提心、求道心があれば、お経があなたにだけ光を放つようになる。
私もお経は昔は意味も分からず読んでいた時期がありました。
大悲心陀羅尼を年間500回以上読んでも慈悲心のカケラ一つ生じなかった自分にや周囲の坊さんたちに疑問を感じるようになりました。
今は智慧も慈悲も「やる」工夫をしております。
観音の救いは自分が生み出すもの。
般若心経一つあげるのも法事の際に、般若波羅蜜の修行法を毎回お話して参列者の方々にも「やるお経」「やる般若心経」をお伝えいたしております。
曹洞宗では『正法眼蔵』という難関な書にも参じます。
修行道場時代、老師に噛みつきましたら「アンタ『正法眼蔵』を子供に説いてみろ!できるか!それが出来たら本物だ!」と言われました。
ぜひ、般若心経という小麦を加工してみんなに親しめるようにパンやクッキーやピザにしてみてください。それが出来たら本物です。人生の宿題です。
智慧と禅定
智慧(真理に気付く悟り)の面から言うなら、お経の内容を理解して唱えるべきでしょう。
一方、禅定(ぜんじょう。精神集中)の面から言うなら、意味がわからなくても呪文に意識を集中したり唱えてリラックスすることで、悩み苦しみの原因である煩悩を鎮めたり制御したりできるでしょう。
ギャーテイギャーテイと唱える→妄想雑念が沸いてくる→妄想雑念にとらわれず意識をギャーテイギャーテイに戻す
この繰り返しだけでも、悩み苦しみをコントロールするテクニックにつながる可能性はあります。
だから、意味がわからなくても唱えることに意義はゼロではないでしょう。
もちろん、せっかくのお経なので意味を知るのは良いことですね。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
確かに意味を理解した方が得られるものも多くなると思うので、少しずつ調べてみます。