あの世について無記と言う姿勢は正しい?
あの世や霊魂の存在を考えないという姿勢は本当に正しいのでしょうか?
中学時代の世界史の教師が言っていたことですが
昔のインドはコーサラ国とマガダ国いう強国が存在し
お釈迦様はコーサラ国に支配される属国の王子った
若い頃のお釈迦様は 文武両道で抜きんでた才能があり 父親の王も頼もしく思っていたが
お釈迦様は心に悩みを抱えて引きこもるようになり、やがて城も妻子も捨てて修行の道を進むようになった
やがて、お釈迦様の一族や家来の中に次々と同じ道に進むものが現れたため父親は非常に悲しんだ
と話していました
ウィキペディアの記述によると
【釈迦族は釈迦の晩年の時期、隣国コーサラ国の毘瑠璃王の大軍に攻められ皆殺しにされたという】
とあります。
お釈迦様の存命時に一族が戦乱で滅んだということですよね?
お釈迦様は大国に従属する小領主の家に生まれ
日本の毛利元就や徳川家康のように名将とし躍進する才能・可能性があったにもかかわらず、その道を捨ててしまっために一族が滅んでしまった
といったところでしょうか
(毛利家は大内・尼子 徳川家は・今川・織田という強い勢力に囲まれていた)
お釈迦様自体は死後の世界については「無記」として語らないという立場だったようですが、
私がお釈迦様の立場なら 死後の世界を考えることはそれ自体が 生き地獄で気が狂いそう(苦しんで自殺するかもしれない)になると思います。
死後の世界が存在したら自分の祖父母 両親などが 自分の一族が皆殺しになったことをあの世で悲しんでいることが明らかで
自分もその責任を感じるはずですから・・・
歴史上では心残りな思いで亡くなるケースは多く
平清盛 武田信玄 豊臣秀吉などは
子供の将来を心配して亡くなったことも
そしてその一族(弟や子供など)の末路が悲惨だったのも知られており
死後の世界があれば、彼らはあの世でも苦しみ続けているはず
話をお釈迦様の話に戻しますが
お釈迦様の死後の世界についての「無記」という姿勢は自分の身の上に起こったことが原因でバイアスがかかっている可能性はないのでしょうか?
私にはお釈迦様は日本の建礼門院、信松尼、天秀尼などと同じ立場に思えるのですが
人間は生きていくうえで本当に「無記」と言う姿勢でよいと思いますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
最上無為の悟り、菩提に至らんが為のゆえの無記。
たとえば道元禅師は「無所得無所悟」という事を説かれましたが、これは大悟に達する上においては何かを求めようとする姿勢すら持つな、という趣旨です。これを読解力のない僧侶や仏教者が読むと「( ゚Д゚)道元禅師は悟りがあってもいけない、得るものがあってもいけないと問いた」というトンデモ論を展開してドエラいことになります。曹洞宗は戦後、一部の僧侶たちが無悟り禅を展開して、ナンニモナラヌ空虚禅こそが本当の禅だと誤解する人もいたぐらいです。何にもならんなら生老病死、四苦八苦があっても何の問題解決にもナラヌということになりますから、邪禅。
一部の学者は🍚飯のため持論のために祖師や経典の前後カット✂トリミングでいいところどりをして説得力のあるフレーズ・一説だけを切り取るところがある。それが「これこそ仏教の教えだぁ」みたいに説く人もいるという現実があるという事はまず注意しておきましょう。👀
つまり、仏教ではなく仏教のとある一部分だけを切り取って都合よく解釈して別のなにかをやろうとするという活動です。おおよそ世間の仏教書も数割はそういうたぐいのものがあるという視点も大事です。
祖師の説を「こうだ」と誤って解釈する者は「だれ」か?
よって、死後の世界に「無記」ということも、死後の世界についてまるで考えないとか、そういうことではなくて、仏教においてはこの上ない最高の精神、この上なく優れた明晰性が無上の菩提、悟り、涅槃なわけだから、その最高の精神に到達する上においては、死後の世界がなんちゃらだとかサブカルチャー的な世界を主軸において修行をすると心が変な方向に向かってしまうからこそ「無記」というスタンスなのでしょう。
そして、いざ自己の真実相を明らかにすれば、死後の世界とか死という事自体にもおそれを抱かず、お釈迦様の涅槃会図のように死に臨んでも平然として静かに処することができるのです。
「無記」とは死後の世界について語らず、記さずという態度ではなく、むしろ仏教徒は大いに死をみつめ、死を思うことで死は避けられんことだと気づき、死ぬのが怖ければその死という事が問題にならんほどにまで心をみつめてみようという気持ちも起こるはずです。どうぞ、死、無記ということの大真実、真意を知らんと欲して菩提心をおこして自分が自分の死という事に向き合い、仏道を求めて死への恐怖を克服していただければと思います。
「無記」について
カシワモンさま
釈尊があの世や霊魂的存在について完全に「無記」であったかと言えば、そうではありません。
対機説法、善巧方便においては、お説きになられておられることも当然にあります。他の世界、他の浄土等についてもお説きになられておられますし、密教では輪廻をつなぐ存在についても明確に説かれておいでであります。
ただ、いずれにしてもそれらは業論において説かれる付属的なものでもあります。
仏教の要諦は、業の因縁論であり、善き因縁に依れば、善き結果に恵まれていくことになる、悪い因縁に依れば、悪い結果が伴うことになっていく。善い因縁を調えていくための教えが仏教となるのであります。
各自の機根に応じて、その善き因縁を積むことにおいての弊害があるとご判断された場合には、「無記」として議論を避けられたことがあるのは事実でございます。
合掌
質問者からのお礼
お答えいただきありがとうございます。
考えすぎて気づかない視点にいろいろ気がつくことが出来ました。