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浄土教と阿弥陀様のお力について

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私の父方の宗派が浄土真宗です。私は浄土真宗の教えをよく、「これは心改めた死刑囚に対して最も有効な教えかもしれない」と思うことがあります。他の宗派では、仏性には思考・言葉・行動の全てが揃っていなくてはならないなら、せいぜい世界の幸福を祈るという「思考」しかできない檻の中の死刑囚に救いは無い…というような見捨てにも解釈できる説法をされたことがあります。私は身内に死刑囚が居るわけじゃないのですが、「心改めた檻の中の死刑囚でも罪を償う方法があるかどうか?」が、それが本物の宗教かどうかをジャッジできると本能的に予想したのだと思います。

さて、阿弥陀様はよく他の宗派では悪者扱いされています。「あのお方はあの世の管轄者だからこの世のことは救ってくれない、功徳も利益もない、阿弥陀様にすがることはただの来世に託した人生の諦めでしかない」などと言われます。

阿弥陀様は、この世でも大衆を救ってくださる方なのでしょうか? 無量寿経などの聖典にはなんと書いてあるのでしょう? 回答よろしくお願い申し上げます

2023年2月11日 3:05

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

個人の感想です。

こんにちは、

はじめに、私の回答が浄土真宗の模範解答というつもりもなく、出雲路派教学部の見解でもなく、個人の感想であることを先にお伝えします。

無量寿経という言葉をご存知なら、よまれたこともありますでしょうか。
お経にどう書いてあるかだけでなく、書いてあることをどう理解するかで、世界観が変化します。

まず、無量寿経の引用でいうなら、讃仏偈のもう少し後くらいかな。
『あんたは何で修行してるの?』
という問いに
『生死勤苦の元を抜く』と答えている部分があります。
死んだ人は成仏した存在。すでに救われた状態。『生死の間で悩める衆生の苦しみの元を抜く』と話してます。
苦しみの元が抜かれた状態が救われた状態かなと思います。

宮本師の回答にもある48の誓願文ですが、その末尾は『不取正覚』とあります。

『救えないなら、まだまだ一人前の仏を名乗る資格がない。』と私は解釈しています。救いを押し付けることはしてません。
18願については私は、迷える衆生に必要とされないなら、まだまだ私も一人前とは言えないな、という理解をしています。
レストランでいうところの、食材揃えてメニューも決めた、あとはみんながお店に入ってくれるだけ。こちらはお客さんの笑顔を見るために腕も磨いたし、いい食材も揃えた。
あとは阿弥陀如来のところに往きたいと声に出してもらうだけ。南無阿弥陀仏と唱えてくれたら、何なら出前もします。だけど、注文しないうちは届けられない。まず気持ちを声に出しましょう。

という感じかなと思ってます。

請願文の1番目は、地獄、餓鬼、畜生の世界をつくらんと誓ってます。それも大事だなと思ってます。

あと、阿弥陀如来のことは阿弥陀経も見てくださると嬉しいです。

ウチの寺のページにも載せてます。
鳥も口コミで阿弥陀如来推すよっ言ってます。

死刑囚については、心を改めた時点ですでに半分以上救われてるんじゃないかなと考える立場です。

参考になれば。

2023年2月11日 8:38
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世の中こわい。人もこわい。 大きい人の都合に振り回される 報われない。...
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阿弥陀如来

はじめまして、私は浄土真宗の僧侶です。無量寿経のメインはなんと言っても本願です。とりわけ第18願が重んじられてますね。簡単に言うと念仏をする全ての人々を成仏させられないならば私は悟りを開かない(如来にならない)という誓いです。私はこれを拡大解釈して別に念仏しなくても全てを救うと考えています。
あなたがおっしゃるように確かにあの世の安心を約束している文言に見えますけどね、実は違います。
人間は生まれたら必ず死にます。本能的に常に死を恐れて生きています。何故に死が恐ろしいかと考えると、もちろん生老病死と言いますから病気や怪我で痛いとか苦しいのが嫌だと言う事も言えますがそれは一時的なものですよね。それより、死んだら自分はどうなるのか?肉体が滅すれば魂も滅して無に帰するのか?生きている時の業で地獄に落ちるのか?そのような漠然とした不安が死の恐怖なのではないでしょうか。
しかし、浄土教では阿弥陀さまのお救いで必ず浄土往生出来る訳です。往生と言う言葉は往って生まれると書きます。つまり極楽浄土に往って仏として生まれる意味です。ですから浄土真宗では往生即成仏と説きます。
そして、全ての衆生が往生すると言う事を本当に信じる事が浄土真宗の信心なのです。しかし、残念ながら私たちは自分が死んだら必ず往生出来ると信じることが難しいのです。なぜなら本当かしら?と言う疑いの心があるからです。これを煩悩と言います。
しかし、もしも阿弥陀さまの救いと浄土往生を本当に信じる事ができたなら、実は今生きているこの世を幸せに生きる事が出来るのです。何故なら、私たちは常に幸せになりたいと思って生きています、死んだらどうなるか分からんから生きてる内に美味いもん食べとこう、死んだらどうなるか分からんからカラダが元気な内に旅行もたくさん行っておこう。となります。つまり、生きてる内が花と考えるのです。
それはあの世が不安心だからそう思う訳で、もしもあの世がお浄土の世界で安心ならばそんなにジタバタしなくても良いのだとなる訳です。
となれば信心をしっかり持てば、いま生きている世界でしっかり地に足を付けて生き切ることが出来るのです。
つまり、浄土真宗の根幹はこの世も幸せ、あの世も幸せと言うダブルの幸せを手に入れる教えと言うことが言えます。
南无阿彌陀佛  

2023年2月11日 7:48
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仏教の目的は、抜苦与楽と成仏です。 生きている人の苦しみをどうしたら癒せ...
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質問者からのお礼

皆様、ありがとうございます。私も、そしてみんなも、まさしく大乗でこの世もあの世も幸せに過ごしたいです

「浄土真宗」問答一覧

浄土真宗における戒名について

先日祖母が他界しました。故人は浄土真宗大谷派です。曽祖母の遠縁にこれまでお世話になっていましたが、住職の健康問題があり今回の葬儀も対応いただくことができず先行きがわからないこと、体調不良の以前からも車で40分ほどの距離の法要をお断りされていたこと、葬儀や法要の際に酩酊や二日酔いのような状態で途中で退席することがあり、今後お付き合いできるか不安な点が多々あります。 母(亡くなった祖母の娘)はこれまでのおてつぎのお寺に関係から、法名をお寺にお願いすることを躊躇っています。母は不安を要素があるお寺にお願いするなら、祖母の人柄を知った上でで「釋尼幸楽」としたいそうですが、またこの法名が問題ないのか心配だそうです。そもそも戒名についての前提知識がないのですが、お寺から「頂く」べきですか?そもそも故人の遺族が(宗派のルールについて調べた上で)法名をつけることはできるのでしょうか? また、これまでお世話になっていたお寺(曽祖母の関係者)から、曾祖父のお寺に変えたい、と母が希望しています。地区名(都道府県、市、地区名)はわかっているのですが、存命のものがおらずお寺の名前がわかりません。どうにかして見つけることは可能なのでしょうか?可能性のあるお寺に聞いてみることは可能なのでしょうか?

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真宗の日ごろのお勤めをはじめたいです。

うまくいかない恋愛を前に常に間違える自分は相手を困らせ、自分も傷つくの繰り返しで、自分で判断するよりもまだいくらかよいか…と占いにはまって抜け出せなくおりました。(まだ抜けきってませんが。。) 恋愛に対して、よろしくないとか凶とかばかり出ていたのでしたが、それが念仏を唱えさせていただく契機になるのだから占いの上での人間的な欲望ベースの吉凶もあてにならないなと思えてまいりました。 悲しみ、不安、妬み、怒り、今はそうした感情が湧いてきたときに念仏を唱えさせていただきます。それから何もない時でもことあるごとに。 最近は、私につらく当たる上司も、報われず悲しい顔をしているあの人も、妬ましいと思ってしまった幸福そうなカップルも、馬鹿にして軽蔑してしまった人も皆、等しくともに極楽浄土へ向かい仏になるのだと思うとその方々の身の上にも念仏を唱えさせていただいている自分がおりました。 念仏をいただくとも阿弥陀様がもらすことなく私たちをお救い下さるというのになぜ、さらに勤行を重ねていらっしゃる方々がいるのかなんとなくわかった気がします。 この娑婆でこの私が今一歩、執着を離れ心穏やかに、(併せて周りの人も穏やかに)いられるためにもう一歩踏み込んでみたいと思っていますがまずなにをはじめたらよいでしょうか。 ただ、その行為自体にすがろうとか執着してしまうということは避けねばとは思います。 ちなみに、私の家自体は本家から離れ菩提寺もないのですが父方が大谷派、母方が本願寺派です。 (それにしても仏教は面白いですね。みんな根っこは同じでもお釈迦様の教えが多様に分かれていって、親鸞上人の教えもさらに多様に分かれていって。人の数だけ救われ方がある、のでしょうか?) ※すこしとりとめのない感じになってしまいすみません。

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浄土真宗に対するカルチャーショック

先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ