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人はなぜ手を合わせるのでしょうか?

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重複した質問がありましたら、ごめんなさい。

以前、別なことで質問した時、ご回答をいただきまして、ありがとうございました。

人はなぜ手を合わせるのでしょうか?
仏様、神様、人にお願いする時やご飯の前、
祈らずにはいられない心境の時など。
なぜ手を合わせずにはいられないのでしょうか?(無意識に)

毎日、手を合わせている時に、ふと思ったのです。
疑問に思うこと自体間違っているのかもしれませんが…

色々、調べてみましたが難しく良くわかりません。
申し訳ごさいませんが、私の様な無知な人間にも分かり易く
ご教授いただけないでしょうか?

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

言葉にならない

言葉にならない気持ちを表す為と言えます。
感謝にも似た、詫びる気持ちにも似た、支えられていること、結びついている事、不可思議な縁、有り難き働きが、この世に働いているのはお分かりいただけると思います。
その波長を感じ取った時、人は自ずから手が合わさるのです。

お互い、❝それ❞を 感じ取れる人でありましょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

素晴らしいつぼみが膨らむ

右手を仏さま、左手を自分、そして両の手のひらをシッカリと会わせると…
それは堅実心合掌と言って仏さまといつも一緒という祈りの姿。

その手のひらと手のひらのお腹の部分の力を自然に緩めてみると、
これが虚心合掌といって仏さまとともに自然に素直に祈る姿です。

そして、もう少し合わせた手のひらの間に空間を作ると…
何か蓮の花のツボミのように見えませんか?
それが未敷蓮華合掌と言って
合掌するあなた自身の心に「仏さま」のつぼみが膨らんだ事を
表している祈りの姿です。

何はともあれ、合掌は自分は決して一人ではないという祈りの姿であると思います。

誰であろうと、どんな時であろうと、
決して人は一人ではなく仏さまと一緒であるという事を
思い出し、思い出させる祈りの姿ではないでしょうか?

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おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

仏と私が一体になっているのです。

手を合わせるというのは、私が知っているだけでもいくつかの意味合いがあるようです。

「お手々の皺と皺とを合わせると幸せ」とある仏具屋さんのCM。
あるいは広く知られているのかもしれません。
ちょっと言葉遊びの要素が強いような気もするのですが・・・

指合わせ これも幸せに通じるということのようです。

仏教的な意味合いとしては、右手が仏様、左手が衆生をあらわし、それが一体になるというあたりではないでしょうか。

ともあれ、仏への帰依を現すのが合掌。

心静かに合掌をしてみましょう。

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おきもち

個別相談可能
真宗山元派上西山正善寺住職

合掌について

ゆうじ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

合掌に関しましては、以前にも下記の問いにてお答えをさせて頂きました。

問い「お坊さんに向かって合掌するのは何故ですか」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002970719.html

この際において、合掌は、如来の悟りの内実や働きを顕す手印の一つとしてご説明をさせて頂いております。

『・・私たちが普段行っている合掌は、「堅実心合掌」となります。実は、密教においては、この右手と左手を組み合わせて、如来の悟りの内実や働きを顕すことを手印(しゅいん)と申しますが、合掌もその一つであって、多様な形態がございます。私たちが合掌をするということの一つは、仏・法・僧の三宝に敬礼(きょうらい)するということ、更には悟り・涅槃を目指して精進努力致しますということの表れと言えるのではないかと存じております。堅実心合掌も、悟りへと目指すための堅実な菩提心の表れと考えることができます。・・』

誠に合掌する度に、悟りへと向けた仏道に精進する気持ちを更に堅固なものとして、日々の行いを清く正しくより善くに調えて参りたいものでこざいます。

また、食事の際における合掌は、特に食させて頂くために死したる動物たちへと、あなた様の有り難く尊い「いのち」を頂いて、生かされてあることに感謝することから「いただきます」と述べて行うもので、少し堅実心合掌とは異なるものですが、無数の縁によりて生かされている自分の存在に気づき感謝するのは、仏教的にも大変に重要なことであり、支え合い、分かち合い、助け合いが大切となるこの世界において、思い遣りや慈しみ、利他の心、親切心・報恩心を滋養していく上でも大いに役立つこととなります。

どうか、自らも含めて、一切衆生がやがて皆、悟り・涅槃へと至れますようにと、拙生も日々「合掌」申し上げます。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

藤堂尚夫様
ご回答ありがとうございます。
『指合わせ』、そして仏への帰依を現すのが合掌
仏様や神様に合掌する時は心安らかになれるような気がします。

丹下 覚元様
ご回答ありがとうございます。
やはり人が無意識に、手を合わせずにはいられないのは
そういうことなんでしょうね。

悟東 あすか様
ご回答ありがとうございます。
一人ではなく、仏様と一緒
手を合わせるって素晴らしいことなんですね。

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