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人はなぜ手を合わせるのでしょうか?

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有り難し有り難し 73

重複した質問がありましたら、ごめんなさい。

以前、別なことで質問した時、ご回答をいただきまして、ありがとうございました。

人はなぜ手を合わせるのでしょうか?
仏様、神様、人にお願いする時やご飯の前、
祈らずにはいられない心境の時など。
なぜ手を合わせずにはいられないのでしょうか?(無意識に)

毎日、手を合わせている時に、ふと思ったのです。
疑問に思うこと自体間違っているのかもしれませんが…

色々、調べてみましたが難しく良くわかりません。
申し訳ごさいませんが、私の様な無知な人間にも分かり易く
ご教授いただけないでしょうか?

よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

言葉にならない

言葉にならない気持ちを表す為と言えます。
感謝にも似た、詫びる気持ちにも似た、支えられていること、結びついている事、不可思議な縁、有り難き働きが、この世に働いているのはお分かりいただけると思います。
その波長を感じ取った時、人は自ずから手が合わさるのです。

お互い、❝それ❞を 感じ取れる人でありましょう。

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丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...

素晴らしいつぼみが膨らむ

右手を仏さま、左手を自分、そして両の手のひらをシッカリと会わせると…
それは堅実心合掌と言って仏さまといつも一緒という祈りの姿。

その手のひらと手のひらのお腹の部分の力を自然に緩めてみると、
これが虚心合掌といって仏さまとともに自然に素直に祈る姿です。

そして、もう少し合わせた手のひらの間に空間を作ると…
何か蓮の花のツボミのように見えませんか?
それが未敷蓮華合掌と言って
合掌するあなた自身の心に「仏さま」のつぼみが膨らんだ事を
表している祈りの姿です。

何はともあれ、合掌は自分は決して一人ではないという祈りの姿であると思います。

誰であろうと、どんな時であろうと、
決して人は一人ではなく仏さまと一緒であるという事を
思い出し、思い出させる祈りの姿ではないでしょうか?

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おきもち


仏道に入門して36年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...

仏と私が一体になっているのです。

手を合わせるというのは、私が知っているだけでもいくつかの意味合いがあるようです。

「お手々の皺と皺とを合わせると幸せ」とある仏具屋さんのCM。
あるいは広く知られているのかもしれません。
ちょっと言葉遊びの要素が強いような気もするのですが・・・

指合わせ これも幸せに通じるということのようです。

仏教的な意味合いとしては、右手が仏様、左手が衆生をあらわし、それが一体になるというあたりではないでしょうか。

ともあれ、仏への帰依を現すのが合掌。

心静かに合掌をしてみましょう。

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おきもち


真宗山元派上西山正善寺住職

合掌について

ゆうじ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

合掌に関しましては、以前にも下記の問いにてお答えをさせて頂きました。

問い「お坊さんに向かって合掌するのは何故ですか」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002970719.html

この際において、合掌は、如来の悟りの内実や働きを顕す手印の一つとしてご説明をさせて頂いております。

『・・私たちが普段行っている合掌は、「堅実心合掌」となります。実は、密教においては、この右手と左手を組み合わせて、如来の悟りの内実や働きを顕すことを手印(しゅいん)と申しますが、合掌もその一つであって、多様な形態がございます。私たちが合掌をするということの一つは、仏・法・僧の三宝に敬礼(きょうらい)するということ、更には悟り・涅槃を目指して精進努力致しますということの表れと言えるのではないかと存じております。堅実心合掌も、悟りへと目指すための堅実な菩提心の表れと考えることができます。・・』

誠に合掌する度に、悟りへと向けた仏道に精進する気持ちを更に堅固なものとして、日々の行いを清く正しくより善くに調えて参りたいものでこざいます。

また、食事の際における合掌は、特に食させて頂くために死したる動物たちへと、あなた様の有り難く尊い「いのち」を頂いて、生かされてあることに感謝することから「いただきます」と述べて行うもので、少し堅実心合掌とは異なるものですが、無数の縁によりて生かされている自分の存在に気づき感謝するのは、仏教的にも大変に重要なことであり、支え合い、分かち合い、助け合いが大切となるこの世界において、思い遣りや慈しみ、利他の心、親切心・報恩心を滋養していく上でも大いに役立つこととなります。

どうか、自らも含めて、一切衆生がやがて皆、悟り・涅槃へと至れますようにと、拙生も日々「合掌」申し上げます。

川口英俊 合掌

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川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究 この度、仏...

質問者からのお礼

藤堂尚夫様
ご回答ありがとうございます。
『指合わせ』、そして仏への帰依を現すのが合掌
仏様や神様に合掌する時は心安らかになれるような気がします。

丹下 覚元様
ご回答ありがとうございます。
やはり人が無意識に、手を合わせずにはいられないのは
そういうことなんでしょうね。

悟東 あすか様
ご回答ありがとうございます。
一人ではなく、仏様と一緒
手を合わせるって素晴らしいことなんですね。

「宗教について」問答一覧

我々だけが正しい?

へタな日本語はすみません。日本住んでいるアメリカ人です。 アブラハム系の信仰は「排他主義」だとよく言われます。例えば、多くのクリスチャンやイスラム教徒は、"自分たちだけが正しい。他の宗教の信者は永遠に地獄に落ちる" と考えています。これは公式の教義です。 中世キリスト教の十字軍、イスラム教のジハード、「異端者」の殺害、「魔女」の焼却、「異教徒」の強制改宗など : 西洋の歴史では宗教的暴力はよく見られます。このような暴力は、アジアの歴史に、欧米に比べてめずらしいだと思います。 アブラハムの「排他主義」のせいで、私は家族が信仰するキリスト教に嫌悪感を抱くようになりました。"道徳的な神は、不信者を永遠に地獄で焼かせるようなことはしない"と思った, 子供ときから。 仏教に興味を持ち始めたのは、仏教の方が洗練されていると感じたからです。仏教の方が洗練されていて、心が広く感じられたからです。慈悲深い感じがしたからです。仏教の「方便」という考え方は、真理への道がいくつもあるということですよね。 しかし、日本の仏教にも若干の「排他主義」があるのではないでしょうか?例えば、親鸞上人は「このひどい時代には念仏だけは適切です」と考えていたそうですね。 日蓮上人の「四箇格言」は、他の宗派に対して特に批判的なようです: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%AE%87%E6%A0%BC%E8%A8%80 私は親鸞聖人も日蓮上人も深く尊敬していますが、彼らの信者はお互いに尊敬し合えるのでしょうか? では、21世紀はどうだろう。日本の宗派は調和しているのか、それとも「排他主義」による緊張感があるのか。 親鸞聖人と日蓮上人の両方の書物を愛読することは許されるのでしょうか?どちらの説も、透き通った真実を見ているような気がします。私は、真言宗と天台宗の思想も大好。一方だけを選ぶことは必要でしょうか? 心がズタズタに引き裂かれるような感覚です。

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宗教の両立

実は僕、キリスト教の高校への進学が決まりました。志望校なのでそれはうれしい事間違いないです。 しかし、僕は仏教なだけにキリスト教系の高校に進学後、どうしてもキリスト様やマリア様がいると信じます。 でもそれは仏教の教えに違反しているっぽく、曖昧な気持ちになってしまい、まるで仏様や仏教関係の事を裏切ってしまったとみなされて、死後地獄行きかな?と思いました。 昔はキリスト教の禁止があったため、今もキリスト教を信じるのは厳禁なのですか?でもこれから崇拝も経験になりますし、賛美歌も合唱しますし、聖書も持つ事にもなりますので仏様やのの様、阿弥陀様、そしてその他の神仏様方には大変申し訳ない事ですがどうしても通る道になります。 でもそこで「宗教の両立」は可能なのか?と思うしかありませんでした(本当にあるのかな?と) もしそうだとしたら、僕は仏様とキリスト様はどっちもいると思います。 なぜなら、キリスト教は恐ろしい事に、神の存在を信じなければ恐ろしい事がまっているためです。それはそれで困るのでどっちも信じます。(つまり仏教とキリスト教はどっちも存在すると) でもそれでまた間違った考えを持った罪で地獄行き…(実際にそのような地獄は調べたら出てきました。) 「邪教を信じてはいけない」みたいな事が書かれていたのですが、キリスト教もその一つなのでしょうか? どっちみち「宗教の両立」も無意味なのでしょうか。 果たして、キリスト教を崇拝し、賛美歌も歌っただけでも大きな罪なのでしょうか? 改めまして、仏教とキリスト教は、宗教の自由だけどなるべく両立したほうがよいのでしょうか?ご回答お願いいたします。

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先祖からの因縁で不幸になるのか

13年前に子供が病気になったときある宗教に出会いました。先祖からの因縁を浄めるためおせがきやお護魔をすること、他の人を入信させて育てることで因縁が浄められる、得ずみのためにお布施をするというかんじでした。10年一生懸命信じてきました。でもその娘がまた乳癌になってしまいました。その前も今回も先祖の因縁といわれおせがきとお護魔とお布施をすすめられ入信させた人にもっと精進してもらえば娘が救われると言われました。癌のショック、高額な治療費を考えるとそんなお金でません。信じて信仰してきたのですが、なんについてもお金がかかることや、自分が助かるのに他の人が精進しなければならないのかと疑問が沸いてしまいました。でも先祖の因縁でこれ以上娘が辛いおもいをするのかと恐怖があり、この信仰をやめて何かあったらどうしようと怯えもあります。その信仰は霊能者がいてみてもらうのですが、内容は何でわかるのか?と思う内容なのでそれで信じてしまいました。教えの内容も他のために行動することや、真言宗の阿闍梨が教主なのでちゃんとした仏教で嫌な感じではありませんでした。信者のかたもみなさん優しい方ばかりです。 他の宗教は知らないので仏教はどうなのか解りませんが、本当に先祖からの因縁で不幸になるのでしょうか?

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生霊や神様仏様のお力について

よろしくお願い致します。初めての質問で兄の相談をさせて頂きました。 兄はアルコール依存で鬱の疑い、飲酒運転の果ての接触事故、そして兄に対する母の言動で私は精神的に不安定でした。 俳優さんの自死から私の中にもそのような感情が芽生えてしまったこともありました。 表では笑って人を励ましているのに、その感情と並行するように闇がありました。 しかし、これではいけない、楽しい事をしようと母と京都旅行をする事になり、お寺や仏様・神様などを調べているうちに、神様・仏様がどのような力を持っているのかを知りました。 ---- 頭がおかしいと思われるかもしれませんが、兄には生霊が憑いている気がしてお祓いについて真剣に調べました。 「突然背中を強く叩く」というものがあり、不意を突いて兄に実行しました。 兄は驚いていましたが、表情が変わった気がしました。 次の日に、不動明王様の事を知り、お力を借りようと兄が仕事に出かけた後、部屋の前で「これは兄の言葉としてお聞きください」と真言を何度も唱えました。 すると帰宅した兄が、珍しく「温泉いきたい」と出かけ「さっぱりした」と帰ってきました。 数年続いた鬱蒼とした雰囲気とは何か違うように感じ、不動明王様に感謝しました。 それから毎日私は、「全ての神様、仏様、一日宜しくお願いします」「本日も有難うございました」と挨拶をしています。 その中でも、とりわけ話を聞いてほしい神様や仏様の名前を呼ぶのですが、毎日変わる事もあります。 しかし、沢山の神様や仏様をその時の気分で信仰するのはいけないのでしょうか? 一番お慕いしている神様(または仏様)を信仰したほうが良いのでしょうか? 私は先祖のお墓があるお寺の宗派も知らないし、両親は新興宗教に所属しており、お仏壇にはその宗教のお経を唱えています。 私というと、3年前から安井金毘羅宮にお祀りされている崇徳天皇に惹かれ不思議なことが重なり、崇徳天皇がお傍にいるように感じお慕いしています。 怨霊として恐れられていますが、私にはそのような方には思えません。 また、生霊・悪霊は本当にいるのでしょうか?霊感がないので、除霊などできるはずがないですし、それでも、毎日兄や家族の為に神様に挨拶をすることや真言を唱える事を続けた方がいいでしょうか? 読みづらい文章で申し訳ありません。 宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

神社の境内に村のゴミ捨て場があります。

私はシニアで、以前は母子家庭の母でした。 フリーター暮らしが長く、転居も多かったです。自然が大好きなのと、健康のために田舎暮らしを志向し、今は自然の多い古い村の一角に住んでいます。 もとは大阪府の町で生まれ、東京の都会に長くいました。 社会的弱者でしたので、転居する度に、その地域の氏神様(神社)にご挨拶に行き、加護や導きをお願いしてきました。転出して去る時も、氏神様に報告やお礼は欠かしませんでした。 それが、今は過疎の村にいて、氏神の神主さんはもう不在で、村の人が形ばかりの掃除を受け持っています。(お寺ももう住職は不在です) 氏神はさびれています。 その神社は、集まる場所みたいにはなっていて、村全体でゴミ拾いなどをする場合は、その境内に集合します。神社に隣接して自治会の集会所が建てられていて、その集会所を利用する際も、神社の境内を使い、車も止めます。 で、神社の境内の端っこに、村の人の日常的なゴミステーションが設置されています。 私はふだん別のゴミ集積所を使用しますが、乾電池や電球、蛍光灯などの特殊ゴミに関しては、その神社のゴミステーションを利用しなければなりません。 最初は慣れることが先であまり深く考えなかったのですが、先日、車でその神社の境内に行き、乾電池などをコンテナに捨てて、また車で神社の境内を斜めに横切って裏の道に出るということをした時、「神様に対してすごく不遜な、失礼なことをしている」という思いがこみ上げてきて、何か、ドキドキひやひやしました。 そもそも禊祓いの神社に、「ゴミ」は、ダメだと思うのです。 友人や身内に意見を聞いてみたところ、関西の人は、「神社にごみすてばー? バチあたんで!すごいなあ・・」という反応ですが、関東の人は、「ゴミ出すスペースがそこしかなかったんじゃない?」「氏子って、神社から長い年月お金や労力を取られてきてるから、仕返ししてるんじゃない?」「所詮建物に過ぎないし、空き家でしょ?」等と言います。畏敬の念というのが、ぜんぜん無いです。 文化の違いみたいです。 どうしようもないのですが、心にもやもやが残って困ります。 神社を畏敬したら、畏敬の念のない村人に合わせられないし、村人をまねて神社に対する畏敬の念を捨てるということも、私にはできません。 私はどう解釈し、どう神社や村人と接すればいいでしょうか?

有り難し有り難し 21
回答数回答 3

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