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反省していると思う自分への嫌悪感

回答数回答 2
有り難し有り難し 29

初めて相談させていただきます。

先日、Twitterで何気なく放った一言が人を傷つけてしまいました。不謹慎だと多くの人から指摘され、私自身その通りだと思い、その発言を取り下げ、謝罪しました。また、このような迂闊で配慮のない人間が言葉を発する資格はないと考え、Twitter自体も反省を終えるまで謹慎することにしました。

ただ、心からの反省ができないのです。

私がしでかしたことは、たとえるなら私になんの関係もない犬の亡骸を見て「うわっ」と声を上げてしまった。その場に、その犬の遺族がいて「不謹慎な対応をとらないでくれ」と悲しませてしまったようなことです。

考えてしまったことは自然なことです。ただその場に遺族がいるという予想ができなかった。配慮ができなかった。わざわざ口にしなくてよいことを口にした。迂闊であった。それが消え入りたくなるくらい恥ずかしいのです。

それなのに、恥ずかしくて消えてしまいたいのに、「恥ずかしくて消えてしまいたいほど深刻に捉えている自分は、まだマシだ」と心の何処かで考えているのです。そんな自分に気づくたびに、なんて浅はかなのだろうと愕然とするのです。

どうすれば心から反省し、行動を改めることができるでしょうか。どうすれば迂闊な発言を慎み、他者を完璧に思いやり、誰も傷つけない振る舞いができるのでしょうか。

2023年3月2日 0:53

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

拝 

過去を省みて
己の浅はかさを知る
それが反省です
貴女の反省は心からの反省に違いありません

若いうちは多くの人は浅はかなもの
沢山失敗して慎重さと謙虚さを身につけるしかありません

人は自分を責め続けられるほど強くありません
あなたが「まだマシ」と考えてしまうのも
自分を責め続けることはできない
人間の性質です
弱さ故です

このように貴女の悩みは
自分を守るための心の間違えた働きが原因なのでは無いでしょうか?
どこかで自分は正しいと思いたい故
問題をすり替えてしまいたくなる
これこそあさはか

反省は良いのですが
その後の問題のすり替えがとても宜しくない
人の気持ちが一番大事なのに
自分を嫌う事に恐れを感じています

またもや人の気持ちより自分の可愛さから
問題から逃げてしまっています

普段からもっと
謙虚さを意識しましょう
誰かより優れている必要もない
ただ謙虚にありのまま自分の失敗を受け止め無ければ何も学ばなかった事と一緒

きっとまた同じような失敗をしては
己を誤魔化す事でしょう

普段から
自分に対して他人に対して
厳し過ぎはしませんか?
自分や他人に求める理想が高すぎはしませんか?
人は不完全な生き物です
迂闊に口を滑らせる事もある
沢山失敗して覚えるもの

貴女が悩んでいる事は
自分の事
本当に傷ついた人の事が悩みなわけではない

人の為に時間を使える
素敵な人になりましょう

合掌

2023年3月2日 7:32
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有り難し
おきもち

個別相談可能
山形のそれは小さなお寺の住職です。 私は子供の頃いじめられ、社会からドロップアウトするなど金銭的にも苦しみ多面的な貧困を経験。 それらを乗り越えた事は、今では自身を照らす灯り。 色んな社会的活動をしてますが、 自然の中で遊ぶことが大好きで、子供達に体験活動やイベント、木工教室などを催しております。 お寺では草花葬墓地などの永代供養も宗派問わずお迎えしております。

反省といいながら、別のことを優先している。

心底懺悔をされる方はそのことしかありません。
他のことが先立っている心理に向き合うことをお勧めします。
表には反省や懺悔と心理プラカードを出していても、その裏に別の何かを優先している心理があるのかもしれませんね。
心底懺悔をすることは、他人様の目を気にしたり、人から嫌われたくないというような心の声は優先される必要はありません。本当に心底お詫び申し上げますという気持ちが本当に最優先されるようになると、他のことがまぜこぜにならないものです。
あなたには反省したい気持ちはあるのでしょうが、何かを恐れているような印象を受けます。保身も似た心理があることを自分で見抜けるようになれるとそういう心は不要だと気付けるでしょう。

2023年3月2日 9:29
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。考えれば考えるほど、「ああ考えたことそれ自体が悪だったのか?」と考えるようになります。恐らく、私の発言でどうして他人が傷ついたのか、真に理解ができていないのです。にも関わらず反省しなければいけないと思っているから、ポーズだけになっているのだろうなと思いました。だから「保身」であり「我が身かわいさ」だけであり「他人中心でない」のだろうなと思いました。

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