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神や仏は助けてくれないのですか?

なぜ、罪のない人間がひどい虐待を受けたり、見ず知らずの通り魔に刺されたり、災害に巻き込まれて亡くなったりしなくてはならないのでしょうか?

自らの努力ではどうにもならない苦境時にこそ、救うべき立場にあると思うのですが。

ですから、神や仏を信ずることができません。

有り難し 109
回答 4

質問投稿日: 2016年4月16日 21:26

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

人を救うのは人

質問拝見しました
助けてくれないから信じない。
よく分かる。
私もお坊さんなので、毎日手を合わせて祈るけど、ちっとも助けてくれない。と、思う時がある。
何で助けてくれないのか?と
でも助かるチャンスはどこかにあったと、後で気づくんですよ。
それと、人の人生は色んな人の人生と複雑に絡み合っている。袖すり合うも他生の縁と言う様に。他人と自分の織りなす布が人生と考えます。
悲しいけど、だから突然の不幸の死と言うものもあるのだと思います。

それと仏様はのべつ幕なしに救ってくれる存在では無いのです。
法華経には「衆生を見れば苦海に沈んでいる様が見えるが、すぐには助けることはしない。真理を心の底から知りたいと不動の心に至った時、初めて悟りに至る道を示す。」(私の意訳)とあります。
他者が救われない様を見て信じることが出来ないのは、貴方の心ですし、きつい言い方になりますが、あなたの言い訳とも聞こえます。
確かに救ってもらったら、有難いと手を合わせるでしょうが、毎回毎回助けてもらっていたら、人間は甘えがでてしまい努力する事をしなくなる。
それは助ける事が、本当の救いにならないのです。
九州の地震で多くの人が苦しみ、死が目の前に多く存在する。
私は祈らずにはいられない。
亡くなった方の菩提を弔い、苦境にある人達が希望を持って明日を信じる事ができる様に‥
貴方はどうですか?
仏様は助けてくれないからと、手を合わせている事は出来ませんか?
1人の祈りは小さな変化です。
10人100人と増えれば、だんだん大きな変化になります。そのうねりは誰か1人を助ける事ができるかもしれません。
人を助ける事が出来るのは人だけです。
その力をくれるのが仏様だと思います。
たゆまず努力する心を支えてくれるのが仏様だと思います。
質問の答えになっていませんが、思った事を素直に書きました。
貴方の心の一助になればと願うのみです。

3年4ヶ月前

その気持ちは分かります

あなたの言うことはもっともなのです。
しかし仏教というお釈迦様の教えは、自分の身は自分で守りなさい、ということなのです。

良い結果になるように、良い原因をたくさん積む、そして、自分の心を自分でしっかりコントロールする、ということなのです。
そうして自分で自分を守れてはじめて他人を助けることができるのです。

ですから、私達はそれぞれ自らの心を制し、良い行いをしなければならないのです。
そして余裕ができれば、ボランティアや寄付など他人をできる範囲で助けるべきなのです。

しかし、虐待する人は子供の時からこのこと(仏教や道徳など)が教育されずに育った為に、罪の無い人を虐待してしまうのです。つまり虐待した人の親に原因があり、そうなるのは、さらにその親に原因があるのです。
そして虐待した人は結局、後悔したり、逮捕されるなど自分を苦しめることになるのです。
ですから大人はしっかり子供を教育しなければならないのです。
そうして負の連鎖を断ち切らなければならないのです。

また、生まれついて脳細胞に問題があり、それが原因で他人を襲うこともありますね。
このような人は施設でその人の為にもちゃんと保護してあげなければならないのに、施設の管理者のミスなどによって起こる悲劇です。
加害者の親は相当苦しんでいますね。
私達はそのような人をしっかり保護してあげなければならないのです。

また、自然災害は人間の力ではどうにもなりませんね。大きな自然の力の前には人間の命はとても儚いのです。これを防ぐことはできません。もちろん被害を軽減する努力は大切ですが、大きすぎる力の前には無力なのです。

ですから、私達は自らの心を制して、それを受け入れるしかないのです。
その時にどう受け入れるかは宗教宗派、人それぞれです。
私は命尽きると阿弥陀仏を信じて極楽浄土に行くと信じています。私が阿弥陀仏を信じるのは命を救ってもらう為ではなく、心を救ってもらう為なのです。
お釈迦様は愚かな私とは違い、悟りによってそのまま死を受け入れることができました。
私は悟りに達していないので、お釈迦様のようにはいかないのです。
神仏を信じるとは、私にとってはこのような意味なのです。

今回の地震も多くの犠牲と被害を出しましたね。とても辛く悲しいことです。
亡くなっな人の成仏を祈りましょう。
私達にできる範囲で援助しましょう。

3年4ヶ月前

救いの手は人が人に出すもの

なわ子さんこんばんは初めまして

さて今回の質問ですが拝見しますに例えば、ある日目の前に暴力をすると決めた人が現れる
これを覆すのは難しいと思います。
そもそも神仏の守護とは黒服を着たボディガードではありません。そのある日が訪れない様にするのが神仏の守護ではないでしょうか?
はたまた、殺すつもりでいたが傷めつけるだけで終わったのならそれも神仏の守護と言えるのかもしれません

本来なら訪れるある日をたまたま電話が掛かって長話をしていて難を逃れた場合、電話を掛けた人は神仏が遣わした人かもしれません

殴られてる現場に偶然通りかかった人が助けてくれたとしたらそれもまた神仏が遣わした人かもしれません

では死んでしまったら?

明確な殺意または自然災害の猛威をそのままぶつけられ亡くなった場合、神仏の守護はないのかと申しますと、それは違うと立場上答えさせて頂きます

犠牲になり亡くなった場合、では残された私達には何が出来るでしょうか?その人々の無念を忘れずに二度と起きないように対策することではないでしょうか?

それは殺人、事故死だけでなく病死や自然死等全てに共通します。
人は避けられない死に対して目を背けがちですが、医学は死を乗り越えるために大勢の病死患者から今の技術を作り上げました。お年寄りが大勢飛び出す道路にはガードレールを置くことで、交通事故を減らしました。
これらは全て、死というものから得た教訓です。
その人たちの死を無駄にしない。
この様に思い実際に行動に移す事は人の善行です。その善行を解釈次第で神仏の守護と言えるのだと思います。
私が思いますに、『神仏の守護』とは全部後付で、ご都合解釈だと思っています。
ある人が護られたと思えば守護、偶然運が良かったと思えばその人の運気が良かった。
誰かの犠牲から未来の大勢を救うという教訓も人によって守護であったり、戒めであったり、歴史であったりします。

未来に繋ぐためには個人ではなく大勢の人が協力しなければ成しえませんよね?
その一人ひとりの弱い力をまとめて一個の大きい力にして、悲劇を避けれるようにする。
そういった人の強さを信じているからこそ神仏は直接的に手を出さないのだと思います。
ご参考になれば幸いです。

3年4ヶ月前

儚い私たち

拝読させて頂きました。あなたのおっしゃること誠にその通りだとも思います。今日も熊本地震によって或いは記憶に新しい東日本大震災によっても罪もない方々が被災され生命をもうばわれました。そして親しい方々を亡くされた方々の悲しみはとめどもないです。本当に神も仏もあるものか!と思ってしまいます。何故神や仏は救ってくれないのか!と考えずにはいられませんね。
罪もない人々が命を落とされる姿を見ると本当に胸を締め付けられる思いがしますし、己れの無力を痛切に感じます。そんな中で私は東日本大震災の時には亡くなられた方々へ只々祈りを捧げることしかできませんでした。どうか仏様、亡くなられた方々を正しくお導きくださいと、そしてどうかその方達が心から安らかに過ごされますようにと祈ることが私にできる精一杯のことでした。神や仏を信じることはそれぞれです。しかし私達は無力であり、儚い存在だと痛切に感じます。その様な辛いこの世にあって私は人を救ってくれるのは仏の教えであり仏であると信じます。生きる人々も死せる人々も仏は間違うことなく救ってくれます。お答えになったかわかりませんがご参考にと思います。

3年4ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

苦境に立たされた時、もちろん毎回助けて欲しいと甘えているのではなく、凄惨な事件や事故に対してです。それでも助かるチャンスはあるのでしょうか?

神や仏を信じないからとはいえ、今回の熊本の大震災でも祈らずにはいられません。

「たゆまず努力する心を支えてくれるのが仏様である」
「人を救ってくれるのは仏の教えであり仏である」

少し理解が進んだような気が致します。

どうもありがとうございました。

多くのお坊様がそれぞれの思いや考えを詳しく書いて下さり、感謝申し上げます。
何度も何度も読み返させて頂きます。
どうもありがとうございました。

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