過去の過ち 隠し事
私は過去に犯罪にならないと思っていた行動が犯罪と知り、その後、自首。
不起訴となりましたが、前歴が付きました。
上記の事柄は、妻と出会う前の出来事ではあるのですが、未だ話せていません。私と妻ともに隠し事を嫌う性格なのですが、この話をすると嫌われるのでは無いかと思い話せずにいる一方、バレたときのことを考えたら自分から話したほうが良いんじゃないかと思う両面で悩んでいます。過去の過ちについては、反省し本当に後悔しています。過去は変えられませんが少しでも二人にとって前向きになれる方法はありますか?また、一生隠し通すことも考えていますが罪悪感を感じます。その際の前向きに捉えるヒントなどあれば教えてください!よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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春や夏にまで冬のコートは着ないこと。
過去を思い悩むことは誰にもあることです。
また大切な人がおれば なおのこと罪悪感が湧くものです。それだけ奥様のことを大事な存在であると感じることができたということですね。
釈迦はこのように説きます。
「過去は追うな。未来を願うな。今を切に生きよ。」
いわゆる過ぎ去った過去は、"捨てなさない"ということであり、過去を思い悩むことは背中に重い石を背負いながら日々を生きているということとなります。
寺院では日々お勤め(読経)のはじめには懺悔文を唱えます。
➖懺悔文➖
我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋癡
従身語意之所生
一切我今皆懺悔
ー現代訳ー
わたしが過去から作ってきた色々な悪い業(行い)は、遠い過去から積み上げてきた、「貪瞋癡」である。三毒(三業)によるものです。それは、体で行い、話し、思う三つの行為から生まれたのです。
わたしは今、それら全てを懺悔します。
この文を僧侶も唱えることは、誰もが悪の行為をしているということです。
例え人殺しなどしていなくとも、心の中で相手を殺すと思うことは悪業なのであり、すでに人間として犯罪なのです。
しかし、日常の中で何が懺悔に値するのかも判別ができない人間の道徳観があります。
法律でダメなことを基準にしている人もいますが、あさんさんが今 思い悩んでいる罪悪感は、「羞恥心」が自己を煩悶させているものと察します。
これからは正しい行いをしていくことで、過去の後悔は少しずつ減少していきます。ここhasunohaで公開懺悔を行ったのです。もう十分ではないですか。
奥様を悲しませたくないのであれば、墓場までもっていく"覚悟"も必要です。
この覚悟がブレると覚悟でなく、奥様に対する申し訳ない気持ちは、あさんさんの中で抱えていくことにもなります。
昨日や過去を今日に持ち越さず、今日は誰にとっても新しい一日なのです。
ときには自身にも言い聞かせる強さをもち、「これでいいんだ!」を取り入れてください。これは仏教では『諦観』としても捉える修法です。
何度だって人は変われ、季節に春が訪れるように、長かった冬に着ていたコートを春や夏にまで着ない心をお持ちください。
変われます。必ず あさんさんは。
合掌