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浄土宗、浄土真宗の教義について

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浄土宗、浄土真宗の教義について質問させてください。ある本を読んでいたら浄土宗や浄土真宗の教義に良い事も悪い事も何もするなという教義があると書いてました。その本は宗教本ではないですが。本当にそういう教えがあるのでしょうか?あるとしたらなぜ良い事もしてはいけないのですか?お答えお願いいたします。批判、非難しているのではありません。

2023年3月21日 15:40

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

二種深信

ご質問読ませていただきました。私は浄土真宗の僧侶ですが「良い事も悪い事も何もするなという教義」は聞いた事がありません。何と言う誰が書いた本なのでしょうか。浄土教の教義として有名なのは、善導大師が説かれた「二種深信」と言うものがあります。簡単にご説明しますと、①自分はダメ人間だと深く自覚して信じる。②そのようなダメ人間だからこそ阿弥陀如来は慈悲を手向けて下さると言う事を信じる。と言うものです。人間と言うのは、人には謙遜して自分はダメな人間だと言うことはあっても、なかなか本心から言えないですよね。プライドもあるし、他人と比較してしまい他よりはマシだと思ってしまいます。だから本心から謙虚に思うのって難しいのです。しかし、本心からそのような思いがあってこそ仏様は見捨てないのです。

あなたの前回の質問も読ませていただきました。その後の生活はどうですか。
神仏にお願いすることは否定しませんが、自身が冷静に判断して生活の基盤を立て直す努力をされている方に神仏は応援してくれるものだと思います。
あなたが幸せになることをご祈念いたします。合掌

2023年3月21日 23:44
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おきもち

仏教の目的は、抜苦与楽と成仏です。 生きている人の苦しみをどうしたら癒せ...
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言い方なのかもしれませんね…

拝読させて頂きました。
私も「浄土宗や浄土真宗の教義に良い事も悪い事も何もするなという教義がある」というのは聞いたことはありませんね…。

何を以て何もするなというのか甚だ疑問ですが…。

何もするなというよりは「阿弥陀様を誠の心でひたすら信じることそして心から阿弥陀様お救い下さい、極楽浄土にお導きなさって下さいと『南無阿弥陀仏なむあみだぶつ』とお念仏することが何にもまして大切だ」ということでしょうかね。

それ以外のあらゆることは雑行つまり附属・おまけだ、重要ではないということでしょうかね…。
人によってものの言い方なのかもしれません。

私達は阿弥陀仏を心から信じていけば必ず西方極楽浄土に往生させて下さいます。先ずただひたすら信じることです。
仏様は必ず迷い悩み苦しみ私達をお救いなさって下さいます。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

お返事ありがとうございます。著名な方でもその受けとり方は意外と違っていることはよくあります。またメディアで流されている情報でも本旨を勝手に変えている場合がありますからね。ですからちょっと注意して読む必要があります。

平家物語が語られた時代背景にはその当時の日本では「末法思想」が大流行していましたし、大きな時代のうねりの中で人々の意識は阿弥陀仏の西方極楽浄土に生まれたいという切なる願いがあったのかと思います。それは凋落していく天皇や貴族の特権階級の人々から新たな支配勢力である武士階級そして名も知れぬあまたの一般の人々や虐げられてきた人々をも全て救い取るという浄土思想が一気に広まっていった時代です。「諸行無常」の中で「盛者必衰」のこの世を厭い離れていく意識が底流にあったのかと思います。至心合掌 南無阿弥陀仏

2023年3月22日 17:01
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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

お答え誠にありがとうございます。それを書いた人の名前は伏せさせていただきますがクリエイティブな仕事をされている人で評論というかエッセイ的な本をたくさん出されています。去年買った本に浄土宗を評論しているのではなくて、例え話として書いてありました。正直、えー!?て感じで疑念がありましたがお寺に聞きに行くわけにはいかず、今回この機会に質問させていただきました。二重深信の詳しい解説ありがとうございます。私の前回の問題ですが、おかげさまで良い方向に向かっています。降って湧いた災難でしたのでかなり取り乱しました。もう少しで良い結果で解決しそうです。今回は何かのお力で窮地を救っていただいたと心から思っております。専門家でさえ五分五分と言ってましたから。これを機にもっと謙虚かつ優しい人間になれるようがんばろうと思います。お答えありがとうございました。

一向寺のお坊様、回答誠にありがとうございます。私も本を読んだ時、えー!でした。その本まだ家にありますので時間があいたらよく読んでどういう解釈をしているのか考えて見ようと思います。人間は残念ながら独自に解釈したり誤解したりしますもんね。浄土的世界観は私は好きです。私の好きな古典、平家物語も浄土的世界観だと思うのですがどうでしょうか?回答ありがとうございました。

「浄土真宗」問答一覧

私の宗派は、選民思想の厭世主義?

 いつもお世話になっております。動画サイトで私の好きな、 リテラシーの啓発にも取り組んでいる、少しだけ破天荒な 科学者さんのチャンネルの動画を観ていたら、宗派名こそ 出しませんでしたが、 「この世はクソだから、自分たちは神様的な存在に祈って、天国 的な場所に生まれ変われる特別な存在だと思い込んでいる、 選民思想的な陰謀論者。つまり、異世界転生を本気で信じている んですよね」 と出演者さんが言っていました。遠回しに浄土宗のことを言って いるとすぐにわかりました。ショックでしたが、頷かざるを 得ませんでした。  前後編に分かれた、陰謀論に対する注意喚起の動画の、前編の セリフです。後編では、 「誰からも認められない人が陰謀論者になるのです。認めてくれる 人を見つけましょう。極論、人間ではなく、天の神様でもいい」 とフォローしてくださっていました。  なぜ浄土宗だと分かったのかというと、実際に、浄土宗の 寺院でたくさんそのような考えの人を見、浄土宗公式の チャンネルの法話でも、 「この世は苦しいことしかない、だから阿弥陀様に祈って、 極楽浄土に行きましょう」 ということしか言っていないからです。  お寺は本山でした。そこでお説教をしている布教師と、聴聞に 来ている信者は皆、 「他の宗派はろくでなし」 「他の仏や経、真言には利益がない」 「この世は汚いから、念仏だけして、お迎えを待つ」 などという考え方でした。怠惰な人たちだなあという印象でした。  これでは、誤解されても仕方がないよな、とも思います。  しかし、hasunohaでたくさんの(浄土宗含む)お坊様と 出会ううち、 「本山の人たちの言う事は、間違った暴論では?」 と思うようになりました。  確かに、この世は思うようにならないことだらけ…「苦」 だらけだと私も思います。  しかし、「死」や「苦」を意識し、世のため人のため、 「利他」行や「布施」行に、あらゆる形で全力で励み生きるのが、 仏教ではないか。そう考えるようになりました。  だとすると、「厭離穢土、欣求浄土」という考えは?先ほどの、 「この世はクソだから…」という思想になってしまうのでしょうか?  それとも、「この世を浄土にする勢いで」努め励もう、という ことでしょうか?  浄土宗は、選民的な厭世主義なのですか?ご高見を賜りたく 存じます。

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浄土真宗における戒名について

先日祖母が他界しました。故人は浄土真宗大谷派です。曽祖母の遠縁にこれまでお世話になっていましたが、住職の健康問題があり今回の葬儀も対応いただくことができず先行きがわからないこと、体調不良の以前からも車で40分ほどの距離の法要をお断りされていたこと、葬儀や法要の際に酩酊や二日酔いのような状態で途中で退席することがあり、今後お付き合いできるか不安な点が多々あります。 母(亡くなった祖母の娘)はこれまでのおてつぎのお寺に関係から、法名をお寺にお願いすることを躊躇っています。母は不安を要素があるお寺にお願いするなら、祖母の人柄を知った上でで「釋尼幸楽」としたいそうですが、またこの法名が問題ないのか心配だそうです。そもそも戒名についての前提知識がないのですが、お寺から「頂く」べきですか?そもそも故人の遺族が(宗派のルールについて調べた上で)法名をつけることはできるのでしょうか? また、これまでお世話になっていたお寺(曽祖母の関係者)から、曾祖父のお寺に変えたい、と母が希望しています。地区名(都道府県、市、地区名)はわかっているのですが、存命のものがおらずお寺の名前がわかりません。どうにかして見つけることは可能なのでしょうか?可能性のあるお寺に聞いてみることは可能なのでしょうか?

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真宗の日ごろのお勤めをはじめたいです。

うまくいかない恋愛を前に常に間違える自分は相手を困らせ、自分も傷つくの繰り返しで、自分で判断するよりもまだいくらかよいか…と占いにはまって抜け出せなくおりました。(まだ抜けきってませんが。。) 恋愛に対して、よろしくないとか凶とかばかり出ていたのでしたが、それが念仏を唱えさせていただく契機になるのだから占いの上での人間的な欲望ベースの吉凶もあてにならないなと思えてまいりました。 悲しみ、不安、妬み、怒り、今はそうした感情が湧いてきたときに念仏を唱えさせていただきます。それから何もない時でもことあるごとに。 最近は、私につらく当たる上司も、報われず悲しい顔をしているあの人も、妬ましいと思ってしまった幸福そうなカップルも、馬鹿にして軽蔑してしまった人も皆、等しくともに極楽浄土へ向かい仏になるのだと思うとその方々の身の上にも念仏を唱えさせていただいている自分がおりました。 念仏をいただくとも阿弥陀様がもらすことなく私たちをお救い下さるというのになぜ、さらに勤行を重ねていらっしゃる方々がいるのかなんとなくわかった気がします。 この娑婆でこの私が今一歩、執着を離れ心穏やかに、(併せて周りの人も穏やかに)いられるためにもう一歩踏み込んでみたいと思っていますがまずなにをはじめたらよいでしょうか。 ただ、その行為自体にすがろうとか執着してしまうということは避けねばとは思います。 ちなみに、私の家自体は本家から離れ菩提寺もないのですが父方が大谷派、母方が本願寺派です。 (それにしても仏教は面白いですね。みんな根っこは同じでもお釈迦様の教えが多様に分かれていって、親鸞上人の教えもさらに多様に分かれていって。人の数だけ救われ方がある、のでしょうか?) ※すこしとりとめのない感じになってしまいすみません。

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浄土真宗に対するカルチャーショック

先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ