仏教はその目的の実践以外何もない(2)
阿含経典 縁起 (南伝 相応部経典 12.3. 道跡)
前略
「比丘たちよ、正しからぬ道とは何であろうか。
比丘たちよ、無明によって行がある。(以下十二支縁縁起)受→愛。愛→取。取→有。有→生。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積のよって起こるところである。
比丘たちよ、これを正しからぬ道というのである。
比丘たちよ、では正しい道とはなんであろうか。
無明を余すところなく滅することによって行は滅する。(以下十二支縁起)愛→取。取→有。有→生。生の滅することによって老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。このすべての苦の集積のよって滅するところである。
比丘たちよ、これを正しい道というのである。」
(私見)
仏教を知らない人は、皆「無明」なのでしょう。だから縁起に従って生まれてきます。
それは正しい道ではないと警告しています。
生まれてきた人間にお前は正しくないと言われては、何とも救いがなく宗教にはなりません。
従って仏教は「真実の教え」であって生きている人間には救いもなく大変冷たいのです。
救いは次の「正しい道」だと教えています。
しかし無明を「有明」にするのであれば比較的易しいですが、無明を「滅する」となっていますので、とんでもない話です。比丘には「涅槃」を勧めています。いわゆる「心の死(エネルギー化)」ですね。
唯「目的」は「解脱」となっていますので、衆生には、浄土(天界?)へ行く「生まれ変わらない」道をを含んでいるようですので少しは安心です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生きることから卒業
空腹だった人が食べ物にありついたら食べる。そして、食べることに満足した人は食べるのを止めます。
では、生きること(輪廻転生)に満足したらどうなるのでしょうか。
生きることに満足したら、生きるのを止めて輪廻転生(生きものであること)から卒業するのではないでしょうか。
それが平安なる滅び、全きニルヴァーナなのかもしれません。
私たちが先天的に持っている無明という勘違いは、とにかく生きて生きて生き続けた方が良いのだ、私という存在は滅びない方が良いのだという「勘違い」。
でも実は、生きることに満足したら生きる必要が無くなる。
だったら滅びても構わないじゃないか。
ブッダは私達に、満足して卒業するという選択肢を教えてくれたのかも知れません。
質問者からのお礼
願誉浄史御住職様
ご指導を有難うございます。
早くからネットで十二支縁起という言葉での議論を何度も見て、多くは「生」は苦ではなく「老病死」の表現が多く見られましたが、「正しからぬ道」とは思わずこれにショックを受けました。
人間以外の動物は知恵が足らず、永久に輪廻転生を繰り返すのでしょうが、人間は知恵を働かしてニルバーナへの努力を進めることが可能ではないかと思います。
しかし中には、苦を問題にしない人も昔は居て、それを逆用して例えば楠木正成は「七生報国」と叫んで湊川へ赴きました。