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自分に自信がなさすぎて

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有り難し有り難し 18

去年まで辛い恋愛をしていてやっとその人とお別れできて、いま素敵な人とご縁があってお付き合いさせていただいてるんですが自分に自信がなさ過ぎて相手の方に申し訳なくなってきて、とても大切に思ってるんですが私なんかといて幸せなのかな⁇この方には私なんかといるより他にもっと素敵な方がいるんじゃないか?とか色々思ってしまってせっかく一緒に時間を過ごしていても笑顔でいれなかったりします。
その現状も「こんなんじゃ一緒に居たくなくなって当たり前だよなー」って思ってまた落ち込んで負のループの繰り返しです。

相手の方はそんなことないと言ってくれるんですが、それすらも自分に自信がないから「無理して言ってくれてるんじゃ。。。いまはいいけどいずれ我慢出来なくなるんじゃ。。。」なんて思ってしまいます。

とても大切な方で出来ればこれからも一緒に歩んで行きたいと思っているんですが、どうしたらいいでしょうか⁇


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

素の自分でいられる勇気を

その人に好意を持っているから、失いたくもない。でも、そういう気持ちをさらけ出すこともできない。
ひょっとしたら、どこかで嘘をついているかもしれませんね。
より良く見せようとしたり、かかとの高い靴を履くようなよそおいがあるかもしれません。
小さな小さなよそおいがどこかにある。
それをさらけ出せてこそ、ゆくゆくは最高の夫婦関係になるのです。
今は恋人関係でしょうが、自分の素のままをさらけ出してみてください。
それでも彼は受け止めてくれるでしょう。
受け止めれくれないのであれば、それはよそおい、脚色、メイクされたものの方を観ているのであって、あなたに対しての見る目が無かったというだけの事。
かざっていてもいつかぼろが出ます。
今度彼と会う時は、甘えながら自分の素のままを預けてみてください。
人間は真実でないことをすると矛盾が起きるようになっているのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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