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高野山での祈祷と専修念仏は矛盾するか

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浄土宗を信仰している僕ですが、どうしても叶えたい願いがあって、高野山の愛染明王さまに祈祷をしてもらいました。
仏さまが願いを叶えてくださるのはその現世利益によって仏の力の偉大さを実感させて信仰に導くためだと思うのですが、そうすると僕は真言密教を信仰しなければならなくなるでしょうか。

法然上人は称名とそれ以外の諸行を廃立していますが、法然上人が廃した諸行というのは往生・成仏のための行のことであって現世利益目的の祈りまでは廃していないのかどうか?(一枚起請文にも「往生極楽のためには」とわざわざ書いているので、現世利益を祈るのはセーフのような気がしますが)

もし現世利益の祈りまでも廃されているのだとしたら、例えば称名をメインとしながら密教・禅的色彩も濃いと言われている時宗を信仰すれば良いのか?(実は法然上人、親鸞聖人の教えでは納得できなかった部分が一遍上人の解釈なら納得できるという体験を何度もしているので、僕は潜在的にはすでに時宗かもしれません)

そんなことをグルグルと考えていたら、専修念仏の「専修」の部分がなんとも重たく思えてきて、専修じゃなかったら良かったのになどという思いもわいて、自分が何を信仰しているのかわからなくなってきました。本当に迷っています。助けてください。

2023年9月25日 21:52

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

他人に頼みごとをしただけ

愛染明王にお願いをするのも、病院に治療を依頼したり美容院に散髪を依頼するのも、他人に助けを求める点では同じでしょう。
日常生活で誰に何をお願いしようと、念仏すれば往生できることに変わりはありません。
また、念仏以外の善行為や修行をやってもやらなくても、念仏すれば往生できることに変わりはありません。
重要な点は、たとえば「念仏するだけではなく、愛染明王様にも祈祷しないと往生できないのではないか」とか、「念仏だけではなく、布施や持戒をしなければ往生できないのではないか」など、「念仏だけでは不充分?」と疑わないようにすべきだという点です。
また、念仏以外の助行は、念仏の「往生させる力」を補助する修行ではありません。
往生のためには念仏だけで完璧。
助行は、念仏信仰や念仏実践に向かうのを助けるのです。
たとえば、愛染明王様を拝むために仏教寺院を尋ね、それをきっかけに仏教に関心を持ち、念仏のことも思い出すきっかけになれば、それも助行として機能しています。
法然上人は、晩年は毎日6万遍の念仏を称(とな)えられていました。
若い頃から学問に熱心だった法然上人も、念仏だけで完璧だと気づかれたから、晩年には経論を読む時間を減らして念仏の時間を増やされたのでしょう。
一方で、法然さんは、若い弟子の証空さんを天台止観の先生の下で学ばせたと聞きます。
仏教の基礎を知らない若い弟子(最初から法然さんのもとで出家)には、念仏だけではなく天台僧侶としての基礎を学ばせたのです。
まぁ、念仏を疑うことさえなければ、念仏以外の日常生活で何をやっても(他の宗派の仏様を拝んだり念仏以外の善行為をしたりも)ある程度自由ではないでしょうか。
念仏以外の修行がダメならお布施も修行だからダメになります。
しかし浄土宗でもお布施はきっちり受け取りますからね。(笑)
追記
 聖道門は日常生活の悩み苦しみを軽減するのに役立ちます。
 また、往生するまでの間、この世で功徳を積んでおくのは素晴らしいことですね。
追記
 法然上人御法語を読んでいる中で、心に響くものがあるかもしれません。
第十四や、後編の第二十一などはいかがでしょうか。

2023年9月25日 23:35
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

>願誉浄史様

いつもありがとうございます。
まさにおっしゃる通り、念仏だけでは不十分なのでは?という思いに捉われかけています。正確には往生のためには念仏だけで良いということは疑っていませんが、じゃあ往生を目指すだけが仏教か?生きている間はどーすんの?という疑問が頭を離れません。「念仏を唱えるだけの宗派が仏教と言えるか」という浄土教徒なら誰でも一度は自問自答する問題にまた突き当たっています。
往生は別として、生きている間の思想や実践ということを考えた時に、僕が比較的ピンときたのは般若心経なんですが、これを志してもいいのでしょうか?(もちろん般若心経を往生業としては考えず、あくまでも生きている間の智慧の実践として捉えています)

訂正。
般若心経というより般若経典です。金剛般若経も今後勉強していく予定です。

追記ありがとうございます。そして、ちょっと意外なお答えでした。
浄土宗では聖道門というと排斥すべきものだと思っていましたが、「日常生活の悩み苦しみを軽減するのに役立」つと肯定的に受け容れて良いのですか? もしそうならとても嬉しいことですが、疑り深い僕のためにその意を表した法然上人その他浄土宗の祖師たちの言葉があれば教えてください。

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お金なんて要らんと貫いた心

神仏への信仰心がとても篤かった医療人のお話です。 その人は幼き時に難病で視力を失い、家督を譲って琵琶法師と鍼師のどちらかを選ぶときに医の道を選んだそうです。親には「二度と家の敷居をまたぐでないぞ」と突き出され、入門先の師匠は「素足に埃が付いたら掃除やり直し」覚えも良くなく、ある日鍼を持たせてもらった時には、患者さんが痛さで悲鳴と怒号のクレーム続出…ことごとく破門。 後がなく生死をかけ岩屋に篭もって断食修行、無我の境地で空腹に転び手にした松葉(鍼のような)と、くるまった落葉を元に、のちの管鍼法を発案。「これなら患者さんも痛がらずに下手な自分でも施せる」心の清らかな和一さん、あれよあれよと出世し果ては将軍の病まで治癒。「よくやった和一よ、褒美を与える。何でも申せ」と将軍、ところが見返りを求めなかった和一先生、儲けは要らんと一旦断るも、当時の上下関係では言語道断。お互いにプライドがゆるさず譲り合わなかった末(流石の将軍もこれで諦めるであろうと、盲目の自分に)「ひとつ、目が欲しゅうございます」と頓智を効かせたところ「わかった」と将軍は引き下がり、しばらくして江戸の一ツ目という地名の土地に、「盲目と老体が遠方まで行かずともお参りできるように」と江ノ島の弁財天様を勧請、老いても尚熱心に参詣を怠らぬ和一検校を自分のケアスタッフとして「そばに置いておきたかった」のもあり、治療院のみならず弟子の養成所と神社まで併設、そして今も残るそうです ハンデがあっても自立して生きていける術を磨く、世界初の視覚障害者用職業養成機関は、実は江戸時代に「盲目となり家を出され、師弟関係も破門され…住むところもお金もなく、仕事のセンスにも恵まれず…只管に神仏に手を合わせ続けた」信仰篤き偉人の苦労の先に日本で生まれた逸話、私は大好きです! 話が長くなりましたが、私も勉強をし指圧師となって施術をしたいと毎日仕事に明け暮れています。元ヤン僧侶さんは「目標が半端ねぇ。もっと効率的にガッツリ考えろ」と喝を入れてくださいました(笑)息を吸うように朝日が昇れば仕事が入ってきて、6月は休みなしで母の日から連勤達成更新中です。今の仕事も好きですが、やっぱり指圧を専門学校で学びたい。 先日お寺でふと仏様から「前へ。只管に進みなさい」と声が聴こえた氣が…私の指圧を喜んでくれた母の為にも入学が叶うようエールをいただけますか。

有り難し有り難し 6
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