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幸せになる資格ない人達

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有り難し有り難し 13

世の中には幸せになる資格がない人間がいます。

『目先の何かに依存したり、自分より力ある人間にすがったりしてそれを振りかざすように俗なき人々を蔑む人間』

『不満や劣等感を抑えようとせず、自分を大きく見せて、見下して、差別したりして俗なき人間を虐げる人間』です。

ですが、周りにいる人達の中には『どんな人間にも幸せになる権利がある』ーっと、綺麗事にもならない机上の空論を言い出す方もいます。

何故、あの様な低俗でも幸せに価値があると言い出すのか?

何故、上記の二種のろくでなしも幸せにしないといけないのか?

どうか教えて下さい。

2023年10月5日 5:30

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

発展途上中の人間性も最上に到達するとよい作用を生む

まず、論というものは論。仮の話、仮定であったり、一部・側面しか見えていなかったりするものです。
個人の頭の中で作られた仮の考えですから、一面的なものの見方でしかないという面もあります。はたして万人があなたのその論に納得できるかどうか。
その論が本当に人々を救う、納得させる、誰もが感心する、ああ、その通りだと思えるものであるかどうかを問うべきです。およそ、そういう論は危ない考えだからよくない、その人にも愛する家族がいるから、結果、良いことを生まないし不健全だからなどの理由で世間一般からは嫌厭されてしまうかと。
低俗いいますが、人を幸せにすることは低俗とがいえないですが、それでも人を幸せにする活動にすらも低俗なお考えもあるのでは?
であれば、その人を幸せにする活動も低俗目線からさらに発展させ、どうしようもないと思えるような輩をも向上、改良、幸せにできる方法に向けて向上させていけばあなたは真に低俗に染まらなくなれるでしょう。
本音を言えば、こういう非道な…こんな酷いことをする人たちは…、という人はこの世にたくさん存在するでしょう。ですが、そういう悪事、不正、犯罪、非道をなす人も、そういうことをせざるを得ない心理に追い込まれていった経緯もある。その結果としてそういう悲惨な結果に至ったわけでしょう。ですが、どろどろに染まった人間性はそれで終わりでしょうか。さらなる向上が願われるべき存在でもあります。あなたのその考えもぶっちゃけ、どろどろしている気配もありますよ。おしゃか様や祖師たちがそういうことを言ったらある種ホラーでしょうに。
実際に、イメージしてみてください。
💀仏は次のように語られました…
(# ゚Д゚)…世の中には…幸せになる資格などない人間がいる…。
信者 ざわざわ…
(# ゚Д゚)何故、あの低俗、ろくでなしも幸せにしないといけないのか…!
信者 ざわざわ…(;゚Д゚)(・.・;)

レベルは異なれども、どんな人間も同じ人間であり、レベルの違いこそあれ人間は誰もが同じ発展途上中の同胞なのではないでしょうか。
心情的にどうしても許しがたい人間がいるという事はよくわかります。
ですが、そういう人間を放置していても、いつか害悪を被る人たちも出てくるでしょう。だからこそ、ともに向上しあう、お互い未熟だからこそ共に…という姿勢で学びあう、磨きあえばいいのではないでしょうか。

2023年10月5日 7:35
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

知能の低い動物でも幸せになれる

人間を噛み殺す動物でも、幸せにはなれます。
ただし、たまたま猟師に出会って撃ち殺される場合もあります。
敵を作れば恨まれる。
悪意はなくても逆恨みもあるし、妬みを受ける場合もある。
人間社会では幸せになりにくい、能力が低い人もいる。
人間に飼われるペットは、知能は低いけれど、もしかしたら幸せかもしれない。
つまりは、能力と住む環境がマッチすれば、野蛮な猛獣でも幸せになれます。

2023年10月6日 12:59
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

素晴らしいお言葉、ありがとうございます。

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