維摩居士は文殊様に帰依した?
維摩居士でも文殊菩薩さまの知恵には、敵わなかったのでしょうか?私が読んだ「維摩経」をマンガにしたものには、維摩居士が文殊菩薩さまに帰依したことは書いてなかったのですが、文殊菩薩さまのことを検索していたところ、どのサイトかは忘れてしまったのですが、その様なことが書かれていた記憶があります。
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文殊様が象徴しているありさま・内容とは何かを読み取る
文殊様とは人間のわたくしのないところです。
文殊様という方が実在したとか、実在するという風にとらえるよりも、万人共通の内なるわたくしの無い様子を象徴したものが文殊という仏・菩薩的な人格・キャラクターが❝象徴❞をしていることなのです。実在をしたわけではありませんからね。
当時も今も何かの作用を説明するうえで人格化することは人類に共通する手法なのでしょう。
以上の点を踏まえて維摩居士が文殊に帰依するという事も、何を言っているのかといえば人間の世界の人間のルールを打ち捨てた様子、人間世界の人間の価値観を離れて仏・菩薩という内なる安らかな作用を尊重する・敬う・敬礼(きょうらい)するという姿勢が説かれている、みながそうするべきことですよ、皆さんがそうすることで救われますよということが説かれているのでしょう。
維摩居士という聡明で仏弟子でもひろゆき氏でも呂布カルマ氏でも論破不可能な人格が、文殊に帰依するという描写は、在家でありがらも仏の作用、仏の功徳、人間の持つ自我や自己愛を捨てた本来の内なる無我の作用、智慧=わたくし意識の無い様子・自己を忘じた様子から生み出されるさまざまな功徳をたたえているのです。
なぜならば、それこそが人々を苦しみから解き放ち、慈悲の心が生じ、無限の叡智・種智が引き出されるからです。
そこでは説かれずとも、菩提心をという「この上ない心を求めるという志」があることで、それは実現するという説示でもあるといえましょう。
菩提心がなければ維摩も世間に数多く存在する論破王のように、ただバッサリと仏弟子たちをコテンパンに論破するだけの教導精神のないオジさんでしかないわけです。維摩居士の尊さとは、単なる世俗の論破王ではなく、菩提心を起こして人間世界の優劣・強弱・勝ち負けをこえた価値に目覚められたという事でしょう。
文殊という仏の功徳を象徴した架空のキャラクターが導く先とは、人間世界の価値よりも仏法の功徳のすばらしさです。人間が我欲・自己愛・自己中心的意識・自己実現欲求を捨て去って、自分自分した心を捨て去ったところに自分も他の存在をも救うより優れた力を見い出したともいえましょう。坊さん、仏弟子を論破し尽くしたところで釈尊よりも優れた教導精神があったわけでもないからです。
智慧だけでは役不足なのです。慈悲や菩提心が無ければ仏の功徳とはなりえません。
発無上意。発菩提心。
質問者からのお礼
丹下様、ご返答感謝いたします。維摩さまは今でいう最強の論破王だったのですね。そのお方が、文殊菩薩様を通して、知恵だけでなく、慈悲や菩提心に目覚めたというお話が「維摩経」であったのですね。どうもありがとうございました。