浄土で人はなにをしているのか
我が家は浄土宗ですが、私は必ずしも浄土宗の教えがしっくりきません。
後世安穏、往生安楽国という表現があります。死んだら極楽浄土に行く、というのですが、じゃあ浄土では安楽にのんびりと暮らすんでしょうか?何も苦がない世界では何をしているんでしょうか?それはとても退屈で飽きる生活が延々と続く事ではないかと悩みます。
解釈が間違っているかも知れませんが、私は最澄さんは「生きていることそのものが菩薩行だ」と言われたように思っています。だから日々、観音経を唱えるのは「自らもかくあれ」ということだと思って唱えています。
でも生きている間には私たちは菩薩の域には到達できません。となれば、死んでからも菩薩になるための修行をするんだと思っているのですが、すると浄土では何をするんでしょうか。地獄についてはたくさんの絵も説明もあります。しかし、極楽世界といわれるところで、私たちはどのような生活を、どのような思想的な深みを目指す営みをするのでしょうか。今が苦しい、その救いとして安楽な浄土があるという理解ではどうしても納得がいかないのです。
浄土で、私たちは何をする覚悟をもって旅立てば良いものでしょう。
貪瞋痴の三毒を払って、と心には念じますが、そうはいきませんね。私は瞋、怒りだけは押さえ込みたいと思っているのですが、子供が思い通りにならない時、間違ったときに鬼になってしまうことがあります。
お坊さんからの回答 2件
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ただ一心に阿弥陀様を信じて
拝読させて頂きました。
そうですね、ご指摘の通りです。
私達は阿弥陀様の西方極楽浄土に往生させて頂き、親しい方々やご先祖様と再会します。喜び合い「倶会一処」同じところで「安楽」心安らかになり一切の迷いや苦しみや辛い思いから救われていきます。
極楽では無数の美しい花々がそれぞれの色で咲き誇り、鳥たちは美しい歌声を響かせて全てが光り輝いているのです。(詳細については阿弥陀経の和訳をお読みくださいね。)
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E7%B5%8C
https://www.iwanami.co.jp/book/b246315.html
その極楽浄土で私達は何の憂いも迷いもなく「菩薩行」に専念することができます。
あなたがおっしゃる通り生きている中では煩悩に支配されて貪りや怒りや愚かさが私達を飲み込んでしまいますので、なかなか「菩薩行」に向き合うことも専念することのできません。生きてる中では日々心は錯乱し、この肉体を離れなければ・この俗世間を離れなければ私達は心から安心して「菩薩道」を歩めませんからね。
極楽浄土であれば私達は「四諦八正道」をすんなりと受け入れ正しく歩み始めることができるでしょうし、「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」の三宝印を素直に受けとめきることができるでしょう、そして成仏していくことができるでしょう。
この俗世を生きる私達はただひたすら阿弥陀様を信じること、阿弥陀様に極楽浄土に往生させて下さいお救い下さいと心からお願いなさり「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」とお念仏をおとなえすることに尽きるのです。それ以外何の覚悟も必要はありません。安心して阿弥陀様にお任せすることだけです。
ですから西方極楽浄土に往生させて頂いてから清らかに円満に阿弥陀様から直接ご説法を伺い覚りの道を歩んでいくことができるのです。そしてあらゆる超能力を身に付けて仏となってこの俗世に再び戻り苦しむ人々を救う手助けをすることができるのです。
あなたが阿弥陀様を一心に深く信じて往生を願います様に、私達と共に極楽に往生なさり再び親しい方々と出会うことできます様に心からお祈りさせて頂きます。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
成仏を目指して修行
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。しかし、自分自身の生老病死苦、他人のそれが存在しない場所、愛別離苦も怨憎会苦も発生しない場所で「菩薩行」を行うとはどういうことなんでしょうか。そこでは誰を、何を救うんですか?極楽でも悩める自分、悩める人がいるというのだったら、その悩みは四諦八正道とは異なるのではないか?極楽での成仏修行って矛盾する教えではないかと思うのです。それとも下界や地獄へ出かけていって苦を目の当たりにして救おうとする仕事が出てくるんでしょうか。こうやって考えていくと、現世での一隅を照らす、日々の営みの輝きにこそ菩薩行があってその継続が極楽でも行われる・・・と思っているのですが、極楽には仕事はないんでしょうかねえ。