1歳10ヶ月の息子を亡くしました。
つい1週間前に、1歳10ヶ月だった息子を亡くしました。母親である私の誕生日に、あまりにも短い生涯を終えてしまいました。
スクスクと元気に育ち、誰から見ても健康優良児だった息子。何の前触れもなく亡くなり、原因不詳の突然死と診断されました。
命日の前夜、いつものように平和にスヤスヤと眠りについた息子は、
翌朝には冷たくかたまり、帰らぬ人となっていました。
息子が亡くなった日は、私の30歳の誕生日でした。一体なぜこんなタイミングで…
愛する我が子がこんなにも急に亡くなってしまい、
残された私たち家族は絶望と悲しみに押しつぶされそうです。まさに、生き地獄です…
私自身、息子と極楽浄土でまた会いたいと願っていますが、
本当にそんな世界があるのだろうか?
人間は亡くなると"無"になって、骨しか残らないのではないか?
…など、悲しい考えが頭をよぎってしまい、気持ちを切り替えることができません。
できるものなら、息子に心配をかけないためにも前向きに生きていきたいですが、
この空虚感、絶望感とどのように向き合っていけばよいのでしょうか。
どうか、アドバイスをいただきたくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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また会おう
hiroazu0411さん
大切な息子さんを突然亡くされた胸の内、大変辛いことと思います。
老いも若きも順番通りにはいかないとは知りながらも、
耐え難いことと思います。
私の話を少しさせて頂きます。
二年半ほど前に突然妹を亡くしました。
自死でした。
一つ違いの妹でした。
今でもふとした時に後悔の念や
言いようのない感情がこみあげては泣いています。
ですが、
お浄土から見てくれている。
お浄土で必ずもう一度会う。
その思いに救われています。
仏教を開かれたお釈迦さまは
仏様です。
仏さまは凡人がわかりようのない、
大宇宙の真理、天地自然の法則を悟ったお方です。
そのお方が『死んだら終いではないよ。阿弥陀さんの極楽浄土で縁のあった方と必ず再会させてもらえるんやで。心配すなよ。』
とおっしゃっています。
私たち凡人には
見えない世界、聞こえない世界が
見えて聞こえたお方なんです。
私たちは知らず知らずのうちにまるで科学が万能かのような
錯覚をしています。
しかし人間のやることです
完全ではありません。
お浄土がある。
と科学では証明できないから『ない』
というのは傲慢ではないでしょうか?
科学は『ある』とも証明できないが
『ない』とも証明できないんです。
私はお釈迦様の言葉を信じます。
そして妹と再会します。
妹だけじゃございません。
おじいちゃん、おばあちゃん。
おそらく先に見送るであろう父母。
友達に、檀家のおっちゃん、おばちゃん達。
その思いで南無阿弥陀仏と
阿弥陀様の名前を呼んでいます。
阿弥陀様はたとえるなら『命の母』のような仏様です。
わが子に名前を呼ばれてほうってはおけない母親のような仏様です。
阿弥陀様うちの妹頼みますね。
私は妹を思い出しては、そんな思いを乗せて
なむあみだぶ、なむあみだぶ。
今息子さんの四十九日中のことと思います。
息子さんのために南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)と
お念仏を回向(亡き人のかわりに称えてその功徳を回し向けてあげること)
してあげてください。できる範囲で結構です。
hiroazu0411さんの思いをそのなむあみだぶの声に乗せて。
私たちも遅かれ早かれ必ず行かせてもらいます。
その時に土産話をたくさん持っていってあげましょうよ。
清らかな人生を送り、清らかな世界へ旅立つ
大切なお子様を亡くされお悲しみの事と思います。心よりお悔やみ申し上げます。
明治大正の頃の日本人の平均寿命はだいたい60歳ぐらいだったそうです。その時代に亡くなった檀家さんの記録を見ても、70代80代まで生きている人は少ない。それ以上に、驚くのは、小さなお子さんが亡くなっていることです。今の60代から80代ぐらいの方々に何人兄弟ですかというと、5人、8人、10人以上という方も結構居られます。でもね、兄弟の人数を聞くと、悲しい答えが返ってくることも多いんです。3人兄弟ですか?と聞くと、いえ、本当は7人なんです。今居るのは5人ですが、本当は10人だったんです。生まれてすぐ亡くなったり、幼児の時に亡くなったり、ということが多かったのです。
今の時代、栄養も良くなり、医療も進み、新生児乳幼児の死亡はかなり少なくなりました。しかし、現代においても「こども病院」に入院している患者さんはたくさん居られます。
また、特定の疾患が無くても、突然亡くなられる場合もあるんですね。20年以上前ですが、横綱千代の富士関の娘さんが乳幼児突然死症候群のため生後4か月で亡くなったことが報道されました。ニュースを聞いて、横綱のお子さんなら、私なんかの子供よりずうっと強いだろうに何故なんだろうと思い、「我が子を急に失ったら、」と思うと他人事とは思えませんでした。
一昨年、檀家さんの娘さんが出産のため実家に戻って来て赤ちゃんが誕生しました。赤ちゃんは重い疾患があり病院に入院し治療を尽くしましたが、亡くなられました。檀家さんに「密葬を勤めていただけませんか?」と頼まれ読経させていただきましたが、御遺族に何て言葉をかけてあげれば良いか、悩みました。「○○ちゃんは短かったけど、清らかな人生を送られました。そして、これから仏様の清らかな世界に旅立ちます。この世での人生は短かったけど、仏様の世界で立派に成長されると思います。どうか、仏様の世界で頑張って、そして立派に成長されるよう、皆様で祈りましょう。そして、応援して行きましょう。」と申し上げました。
あなたのお子さんも短かったけど、とてもとても清らかな人生を送られたと思います。清らかな世界に旅立ち、其の世界で頑張って行かれます。仏様がついてます。こちらの世界で、一生懸命後押ししてあげましょう。
お子様は、常に傍らに来てくださっています。
幼すぎるお子様がお亡くなりになり、心中よりお悔み申し上げます。愛情が深ければ深いほど、その故人の死は受け入れがたいものとなるものです。そのような中で、ご質問に対しての私なりの回答を書かせていただきますが、私からのこの回答が少しでもお役に立てれば幸いだと思っています。
まず、極楽浄土の存在は、科学的に証明できるものではありません。それは存在する基盤が科学で証明される世界にはないからです。科学は常に相対的な世界を扱います。右があれば左がある。死があれば生がある。男性がいれば女性がいる。そのような世界です。それに対して極楽浄土は、私たちが如何に生きるべきかが問われるところに存在する仏様の世界です。それは相対的ではなく、絶対的な世界です。言葉とはそもそも相対的な世界の上に成り立っているものですから、絶対的な世界にあるものは、本来、言葉で説明することができないのです。でも、それでは人と極楽浄土との接点が生まれませんので、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』(通称、浄土三部経)などの経典においては、極楽浄土の世界が説かれております。いかなる言葉でもっても、自分の思いを100%伝えることが出来ないことはあることでしょう。しかし、そうであっても、言葉を通して私たちは自分の思いを相手に伝えようとしますし、相手も私の言葉を通して、私の気持ちに触れようとするのです。それと同じように私たちは、これらの経典を通して、私たちが生きるべき仏様の世界、つまり極楽浄土の世界に触れさせて頂くのです。
ところで、私たちが故人と出会うことが出来るのは、何も極楽浄土においてだけではありません。日々の生活の中で、故人を思い、心の中で故人の名を呼ぶとき、故人はあなたの傍らにいてくれると思うのです。親鸞聖人は、「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり。」と言い残して世を去られたと言われております。故人を想うところに、常に故人は来ているのです。
あなたのお子様も、常にあなたの傍らに来てくださっていることと思います。どうか、たくさん話しかけてあげてください。お子様はそれを楽しみにしていることでしょう。
浄土を信じてお念仏申しましょう。
hiroazu0411様はじめまして。最愛の息子様を突然亡くされ、深い悲しみの内で苦しんでおられますこと、心中お察し申し上げますが何とお声がけしてよいかもわかりません。
ただただお念仏申すばかりです。南無阿弥陀仏
さて、「人間は亡くなると"無"になって、骨しか残らない」のか、はたまた「皆ともに浄土に往生し再び会うことができる」のか、大乗様のおっしゃる通り科学では証明できない領域でございます。
これほど科学が発達し、様々な事象の原因が明らかになっている現代においても、いくら人間が頭で考えても証明できない、わからない問題があるのです。
逆に言うと、「死」というものはそれだけ絶対的なものであるとも言えるでしょう。
しかし証明できないからこそ、その「死」・「死後」をどう考えるかにおいて、私たちには「信仰」という道が残されています。
信じることは力を生みます。
息子様のご命終をただの「無」ととらえ、あまりにも短い可愛そうな一生であったと、そしてもう会うこともできないと嘆き悲しむのか、
息子様の命が短く終ろうとも、その存在がたくさんの喜びと幸せを与えてくれたことは間違いなく、その思い出はたとえ命尽きようともお母様の中に生き続け、今度は息子様がお母様をずっと見守ってくださる仏様として支えてくださり、お母様もまた命尽きた時には息子様と再会できると信じるのか、
どちらの信仰がhiroazu0411様の生きる力となるでしょうか。私は後者を選びたいです。
お浄土はどこかにあるのではなく、信じるあなたの心に開いていくのだと思います。心に地獄を作ってその中で苦しみ生きていくことも、皆ともに阿弥陀様のお浄土に包まれておったのだと安心の中で生かされていくのも信仰です。
hiroazu0411様が中々信じることができなくても、阿弥陀様の方から私たちを救おう救おうと願いをかけ、はたらきかけ続けてくださっていますよ。力を抜いて身をゆだねてみてはいかがでしょうか。
浄土真宗の信心とはあるかもわからないことを無理やり信じ込むことではありません。
我が思いとしては疑いしかない。でも我が思いを超えて、今ここにはたらく教えによって頷かされるのです。それは浄土が「ある」とか「ない」とかいう思いを超えたものなのです。
いずれにしてもこのただならない現実の前にお念仏申すばかりです。南無阿弥陀仏
質問者からのお礼
唯称寺 大乗様
ご丁寧にコメントいただき、ありがとうございます。
妹さんのお話、随分とお辛い出来事でしたね。。
それをずっと悲しみとして引きずるのではなく、お浄土から見守ってくださっている。また必ずお浄土に会いに行く。という強い信念をお持ちになって、全力で生きておられる姿勢に大変感銘を受けました。
お浄土があるかないかなど、限定的な視点にとらわれるのではなく
息子は常に私たちのことを見守ってくれているということ、
また、私たちは一生懸命に生きて、またお浄土で会える息子にたくさんお土産話を持って行こうという前向きな気持ちを持つこと、
大乗さんのこれらのお言葉にとても救われました。
心にしみるアドバイスをいただき、ありがとうございました。
洞林寺 林俊英様
ご丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。
毎日、夜が明けては子どもとの明日があることが当たり前に感じてしまっていた自分を反省しております。
家族の命ある1日1日がどれほどありがたいものか、身をもって学びました…。
この世での短い生涯を嘆いていては、子どもの頑張りが報われないですし、かわいそうですね。
この世での人生は短かったが、仏様の世界で立派に成長するだろう。仏様の世界で頑張って、立派に成長できるよう祈りましょう。
…このお言葉に、とても救われました。心に沁みるお言葉、本当にありがとうございます。
いただいたコメントを励みに、少しずつでも前を向いて生きるよう頑張ります。