鬱病でも仏門に入りたい
今年24歳になります。色々とあり発達障害、鬱病の診断を前々からされています。
もともと10代の頃から、おばあさんになって自分のやりたいことが出来なくなったら仏門を学んでみるのもいいかもしれないと思っていました。
通信制の学校を卒業し、やっとやりたいことをみつけ、SNSや動画を作ったり個人で活動をしていましたがメンタルも体調もよくならずやっと3年続けて折れてしまいそうです。
こんな自分を変えたいと思い、筋トレを始め、たまに仏教や神様のことについて調べて、自分を愛す、諦める、という方法を試したつもりでしたが
自分はだめだ、という固定概念が覆せずやりたい事、今まで楽しかったこともダメになってしまい
これでは人を笑顔にするのはおろか、自分のことも幸せには出来ないと嘆いてばかりです。
バイトを始めれば人間関係が上手くいかず、働かなければ罪悪感に苛まれ、休むこともままならない中、
修行僧を募集しているお寺さんがあることを知りました。
ここで2つ疑問があります。
自分は、仏教について趣味程度の知識しかなく、学校にて学んだことはありません。
精神病について悩んでいる方も迎える、と言ったお寺さんがあることも知っていますが
自分を変えるため、自分のため、と言った理由でも、履歴書をちゃんと書いて、ゆくゆくは人の為に祈りたいと仏門に入ることは許されるのでしょうか。
また、大学に入って学ばなければ修行僧としての受け入れは、やはり難しいでしょうか。
まずは家でやれる写経や座禅、やってみました。
近くのお寺では説法会?など予定が何年も前からずっと更新されず体験出来ていないのが現状です。
頭の硬い私にはなかなか効果がでず、悪い言い方になりますがいっそ
厳しい世界でシバいて
だめならシバかれた経験を生かし自分に強く生きていきたいと思っています。
女の体として生まれたので壁もある世界かもしれませんが、頑張りたいと想ってもいいのでしょうか。
お坊さん本職の方から意見をお聞きしたいです。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
たった今からもっと自由でおおらかであれ それが仏道のスタート
発達障害と言われた、鬱といわれた、誰かからなになにと診断された、とします。
たとえそうであったとしても、人間、人生大事なのは「それで、今、どうなのか?」ということ。
人の本質は、何かが起こった時、今のその反応、リアクション、どう心が動くか、どう心が転ぜられるか?何がどう起ころうとも心が平静、穏やか、不動な「物事の根本道理を明らかにした者」は、心が相手や内なる心理反応によって乱れることがない。
あなたも、およそ「困る」ということがなければ、ただ今日も普通に生きているだけです。
だから、鬱だからとか何とか症だからというマイナスワードで自分を縛らず、固定的に見ることもやめれば無問題。汚れた水の流れた滝とて直後は清水が流れる。人はいつでも身心脱落、日日是成仏の姿で永遠のリフレッシュ体なのです。
坐禅ということも「座」禅ではなく「坐」禅でなければならない。坐とは座ることではない。居るまま、そのまま、どこにいようが、何をしようが。
仏道とはそういう事。
私は数か月前にコロナに感染して心身のバランスが崩れコロナの後遺症の鬱っぽいう状態にあります。
ですが別に凹んだり、悲しみにとどまるわけでもありません。
さっきも境内に不法投棄していたおっさんを捕まえて「二度と来るな!」と注意してきました。👊
人は誰でも病気にはなる。けれども、その病気にありながらも「病状で困る」ことがなければ、病気でも病人でも共生する施設・人々は誰も何も問題がない。
知るべきことは「問題は問題を問題視・問題化させる己の心の負の反応」なのだということ。子供だってそうでしょう。泣くときにゃ泣く。あくびするときはあくびをする。大人と子供、問題が多い人と無問題の人の違いとは何か。
バン!
不都合が生じたとしても後追いがない。追い打ち苦、二重苦がない。咳やあくびと同じ。症状があっても困るか困らないかの違いなのです。
追認、追尋という心理を自分で見抜く。
たとえば人前で大きなくしゃみをしてみんながくすくす笑ったら恥ずかしいとか思うかもしれません。誰もいない部屋であくびしようがオナラしようがGEPしようが何も困らざること赤子のごとし。赤ちゃんは堂々と屁をこいて堂々とげっぷもしますね。仏門に入っても鬼に遭遇すれば、期待していた世界と違ったと思うでしょう。仏門に入らずとも同じ道理を学べば入ったのと同じ心境に至れるので大丈夫です。
仏門という名のどこでもドア
あなたが希望される「仏門」とは、いわゆる修行道場のような環境下で頑張る雲水の姿のように、ご自身が過ごすことでしょうか。
もしそれだけを仏門と捉えるのなら、あれはある程度のフィジカルとメンタルを要求されますので、ご希望通りの結果は望めないかもしれません。
ですがあなたが「仏門に入りたい」と今ご発心されている時点で、あなたはもう仏門に入っているのです。もっと言えば既に仏様の懐で見守られた状況であなたは「仏門に…」と、”隣の芝はもっと青いはずだからそっちが良い”などど仰っている状況です。
あなたの置かれている状況、生きている環境、住んでいる居所、それがどこであろうとあなたに「そう気づいて」さえいただければそこが仏門です。
なにも宗派の修行道場だけに仏門があるわけではありませんからご心配なく。
他方、その先で「僧侶になりたい」と希望されるのなら、またそこで色々と考えるべき条件がありますが、端的にひとつ。
1・生き方としての「僧侶」を目指すのか
2・1に加えて「職業としての僧侶」も目指すのか
ここは見極めておきたい箇所。どちらが良いとか悪いとかではありません。
ひとりの人間として、社会人として、あなたの適性はどの程度なのか。
良いお師匠様に巡りあって、最善の人生設計をなさることを祈念いたします。
このご時世、性別云々はもう関係ありません。お気になさらず。
ご相談ありがとうございました。合掌。