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自分はいなくていい気がしてる

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有り難し有り難し 6

自分が生きていく意味が見つけられないといいますか、いなくても誰にも迷惑かからないなと思ってます。
仕事はしてますし、生活も普通にできてて、定期的にご飯に行く友達もいますが、どうしてもそういう考えになってしまいます。
一昨年、愛犬を2匹亡くしましたが、早く会いたいなと。
自殺願望とかそんなはっきりしたものでもないんですが、ぼんやりと考えたりしています。
ちょっと疲れてるだけなんでしょうか…
趣味とか見つけれたらいいんでしょうが、なかなか興味のあることもなくてですね、どうしたら前向きに生活を送ることができるでしょうか。

2024年1月26日 0:05

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

SHOW MUST GO ON 人間目線と仏目線との違い

修行道場時代の話ですが、いつもいられるとみんながビクつく超おっかない先輩僧がいましてね。その人は自分がいないとお山※(修行道場・本山)が回らないといっておられたそうですが、お師匠さんからお前がおらんでもお山は回る、と一喝されたそうです。
その話を伺ったとき、面白いなぁと感じました。
A当のご本人様が思っておられる世界と、
B厳しくも優しい、真実に目を見開かせんとするお師匠様と。
C実際のこの世界、現実と。
Dその話を聞いて私の頭の中、と。
みんな違うでしょう。
ですが、世界は願わずとも頼まずともSHOW MUST GO ON。
SHOWが途絶えてしまうので最後までやりきらなきゃいかんと思うAさん。
お前がおらんでもSHOWはSHOWでお前がいなけりゃお前がいないというSHOWだという厳しい師匠さま。
SHOWもビジネスも自分の願いもそりゃみんあ人間のご都合。
本当は今日もそんなことも知らずに庭で鳥はなき、風は吹き、寒冷地では地震にも関わらず雪が降るというCの現実世界。
そこであなたはもう一度考え直すべきではないでしょうか?
本当は、自分の思い通りにいかないことがあったりする。
だけれども、本当はこうあってほしいなぁということがないわけではない。
被災地で寒い中奮闘している人たち、学生さんたち、友達をなくされた人たち、家族を亡くしても強く生きていかなければならない名前すら上がらない人たち。
あなたはぶっちゃけ困っていないのです。
本当に困っていないと思います。
何とかなっちゃってるからボーっとすることもできるのです。
自分がいなくてもいいとかいないほうがイイとかいうのは人間の世界のご都合主義というのです。そういうものは危険思想の一つでね。
あんな奴いなくていいとなれば神奈川の施設の殺傷事件になり、高齢者は姥捨て山に捨ててよしという如き扱いになるのだ。👹
ならば、あなたはさらに自分という我を無くして、本当に人に喜んでもらえるような活動をするとよいでしょう。
人の幸せには三つある。
1自分で手に入れるもの
2人から授かるもの
3人に与えて、施して、提供して、して差し上げて幸せになることですぢゃ。
それをやらずにボーっとするなら、本当に生きている意味がないということを「やっている」だけ。実際にリアルにそういうことをぼーっとしてやっているから、そう思うのでしょう。

2024年1月26日 10:57
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

SHOWのお話しすごくよくわかります。誰がいなくなったとしても何事もどうにか回っていくんですよね。経験ありますし、いつからか私もよく人に言ってました。だからこそ自分の代わりはいくらでもいる、自分じゃなくてもいいという考えにつながってる気がします。

人に喜んでもらえる活動……
難しいですね……
少し考えてみようと思います。
コメントありがとうございます。

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