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四十九日について

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いつもお世話になっています。故人がなくなった四十九日について質問させてください。一般的に四十九日間は故人がまだ現世にいるとなっていますが、ずっと昔、霊能力者の人が書いた本には、四十九日間は確かに故人の魂は現世にいますがちょうど四十九日後にあの世からその故人の魂を、あの世の使いが迎えに来る、もし、それについて行かなければずっとこの世を漂う事になる。 と書いてましたがこれは本当の事なんでしょうか?お答えお願いいたします。

2024年2月10日 15:35

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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関わり方が変化してゆく様相を中有という

愛する存在、今まで存在していた方が亡くなられても、こちら側が存在している。
今まで存在していた人に対して、こちら側は何事もなくその人自身、存在自体との関わり合いがあったわけですが、急に亡くなられてしまうと我々のこの身心の上でのその方に対する「ありよう」が不確かなるものになってしまう。
生きているのか死んでいるのか?有るのか無いのか?がいまだ突然のことなのでわからなくなってしまう。そういう心理状態は誰にでも起こるものでしょう。
直接目の前で亡くなられたという場合であっても、後から人づてに亡くなられたということを聞いた場合でも、大事な人であれば驚かれることでしょう。実際に亡くなられたとしても信じられない、認識すらできないということもあるわけです。
高齢の方ならショックでそれを聴いたら共に亡くなられてしまうこともあるからお伝えすら出来ないこともあるでしょう。
よって、亡くなられた方とこち側との深い関わりの中で、生命体そのものの死はあったのだけれども、いまだ不確かで実存しているのか?本当に亡くなられてしまったのかが不確かな状態を中有というのです。
生まれ変わり思想というものも、この世の実在存在としてあった生命体が、その人を知る人たちの中で、心理的な影響作用体として変化していっているさまのことを言うわけです。
ですが、それを当時は学もなかった、言葉・教育もなかった、理知的に伝えることもなかったことから「うまれかわる」という意味があてられたのでしょう。
実際、およそ49日をもって人は生まれ変わるということの本義は、こちら側と亡くなられた方との関わり方が変わること。一つの区切り、決別、新しい踏み出し、再出発です。今後も生と死とを隔てずに共に関わりあっていくための機縁となる日でもあるわけです。人は亡くなられて、通夜、葬儀を通して受戒、仏弟子になっていただき、死後もこの世で仏弟子としてこの世の浄化、救済の活動体となる。そうお祀りするのが仏教的な葬儀です。立派なお坊さんであれば、生前から立派な活動をされていますから、その生き方や教えが死後も多くの人たちの心を成長させる素晴らしい作用体となり生き続けて生まれ変わっているわけです。亡くなられた方を我々の内なる最も清らかな心へとお迎えし、お祀りをする。今後も我々の心の中でお見守りいただき、お導き頂く大存在として敬うことも生まれ変わりなのです。

2024年2月10日 23:15
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。詳しい解説ありがとうございます。しかし、あの霊能力者の本に書いてあった事が正しい事かどうかわかりませんが、長い間ひっかかっています。どうなんでしょうか?母がまだ生きていた時、こんな本読んだし、こんな事書いてたよ、真実かどうかわかんないけどいつか死んで四十九日後にお迎えが来たらちゃんと行きなさいよ!と言っておきました。

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