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心の声を声に出してしまったかもしれず後悔

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いつも前向きになれるお言葉をありがとうございます。

職場の女性に仕事を指示された際、言い方がきつかったので思わず「こわ」と言ってしまいました。

正確には話す時ほどの声の大きさは出していません。
囁くような声で実際に言ったのか、心の声に合わせて口を動かしてしまったので言ったと錯覚しているのか定かではありません。
仕事中はマスクをしているので、口パクだけだったらバレていないと思います。

コロナ禍でマスクをするようになってから、聞こえるか聞こえないかの大きさで独り言を言うのが癖になってしまっていました。
実際に私の独り言を聞いた人もいると思います。

やはりブツブツ独り言を言うのは印象が良くないだろうと思い、最近はあまり言わないように気を付けていました。

今回は相手の方も普通に仕事を続けていましたし、私に対する態度も変わらなかったので、聞こえていない(言っていない)のだと思います。
ですが、もし実際に聞こえていたら周囲の人に言いふらされ、皆から嫌われて仕事がしづらくなるのではないかと不安です。

仕事中は自分の嫌な部分を上手に隠して、当たり障りなく過ごしたいのですが、毎日後悔することばかりで自己嫌悪です。
言動で後悔しない日は来るのでしょうか?

2024年5月9日 21:14

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無色透明 そして 無垢清浄

そのぐらいの言葉だったら別に問題ないんじゃないでしょうか。
考え方や捉え方は人の数だけあるわけですから、リアクションの数や態度や表情も人の数だけあってよいものです。それこそそれぞれの個性の尊重、表現の自由、多様性でございます。
思ったことは人間の正直な反応ですから、悪いことではありません。
大事なことは、
こんなこと言ったらあんなことになるんじゃないか。
相手からこう思われるんじゃなかろうか。
こんなことになったらきっとこんな風になるんじゃないだろうかという不安妄想が問題なだけでしょう。
相手と渡り合っているようで実は別の相手をこちら側、内側に思い描いてそっちを相手にしてしまっていて現実をみない心理。
本人はその現場にいるはずなのに、自分の中で思い描いた空想の相手をイメージしてそのイメージを相手と錯覚・誤解してそのイメージ人物に恐怖や不安を感じる心理なのだと見抜きましょう。

言動で後悔しないためには、信念を持つことです。
わたしであっても、あまりにも言い方がきつい人であれば、同じように思いますし、時には言うべきことを申し上げます。
世界中の人と仲良くなれる人はいませんので、上手な距離感を保ちつつ、相手も自分も傷つけなければいいのです。
無色透明なスタンスも素敵ですが、仏教では無垢清浄という言葉があります。
法華経には無垢清浄の出来事が毎秒、光となって我々の目の前にあらわれていて、それが太陽の光の如くに諸々の不安や悩み苦しみの闇を照らし、心を苦しませる災いの風火のごとき想念を調伏して遍く明らかに世界を照らしてくれると説かれています。
つまり、今出会っている事実はいつでも無色透明で無垢清浄なのです。そこに自分流の「きっとこうだろうなぁ」という私見や思いが伴われないさまをしているのです。
言動で後悔しない、迷わないためにも、自分が口にした言葉も上司から始動された言葉もそれはそれで最初の時点ではいつでも無色透明で無垢清浄なのです。
上司の意見にもこちらのわたくしルールをつけ足さないで聞ければ仏教的にもオトナです。
自分の言動にもいちいち「こんなふうにおもわれたらどうしよう」という私見を持ち込まなくなれればオトナです。
仏教では立派な人を大人と書いて大人(だいにん)といいます。
立派な大人を目指して心という暴れ馬を乗りこなしてください。

2024年5月9日 22:27
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

常に後悔はするものですよ

ご質問拝見させて頂きました。私も無色透明さんと同じで毎日後悔ばかりしていますよ。でも、後悔先に立たずです。やってしまってから、後悔、反省するものです。
同じ過ちを繰り返さないためにはやはり常に心の中でこれはしてはいけない、等の予め心構えは必要でしょう。今回の件でいうなら、「独り言は言わないようにしよう」、みたいな感じで1日中それを思いながら過ごす、などの目標を持って過ごされたらいかがでしょう。私も余計なことは言わない、っていつも思いながらお話するようにしています。効果はありますので、間違いないかと。  合掌

2024年5月10日 6:26
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有り難し
おきもち

真宗大谷派の僧侶です。2024年4月25日にこちらに登録させて頂きました。双極性障害と診断され鬱や躁と戦っております。 医療事務、医療関係の人事部所属、塾講師、ネットショップオーナーなどを経験しております。
基本的に法務から帰宅したらずっと見ています。体験したことがないものはお答え出来ません。 また、ご質問内容をかなり熟読して色々悩んでから回答させてもらっています。ですからお時間がかかることが多々あります。ですので、オンラインなどで即答出来ないと思っておりますので、オンライン個別相談不可とさせてもらっています。ご理解ご了承ください。ただ、メールなどでの個別対応は可能かと思います。ご相談ください。

質問者からのお礼

丹下覚元様
不安な妄想は現実ではない。
今までは空想の相手に怯えていたのですね。
全てにマイナスなイメージを付け加えているのは私自身だと気付きました。
心に響くお言葉をありがとうございました。

些細様
今まで以上に気を付けたいと思います。
ご回答いただきありがとうございました。

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