回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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浄土とは
ご相談拝読しました。極楽浄土(以下、浄土)に往く方法を求めておられるのですね。そのためにはまず浄土を知らなければいけません。
なぜならば、知らないところに行っても自分がそこがそうだと知らなければいつまでも探し続けることになりますし、逆に自分が勝手にこういうところが浄土だと決めつけるならば、浄土ではないところを浄土だと思い込んで居座ることになってしまうからです。
昔々、天親菩薩というお方が、実際に「浄土を観た(瞑想により観察した)」とおっしゃっています。天親菩薩は浄土について
「広大で辺際が無い」『浄土論』
と表現しています。あまりに広大で辺や際が無い。つまりここまでは浄土でここから先は浄土ではないと線引きするような辺や際が無いと言うのです。言うなれば浄土でないところはないということです。
それは浄土とは物理的な空間ではないことを指します。
「あの人がいると場の空気が悪くなる」
という言い方がありますが、その時の「場」というのは同じ物理的空間でも意味内容が変化していることを示しています。
これと同じ様なことが浄土についても言えると思います。つまり浄土という「場」はその場の持つ意味内容を示しているとも言えるでしょう。
同じ場所にいても仏様の智慧の眼で見る場は浄土であり、人間の自己中心的な目で見る場は穢土(えど)なのでしょう。
ですから浄土に往くためには仏様の智慧を賜る必要があります。
そのためには自分で修行して智慧を自ら生じようという道と、仏様の智慧を信心において頂戴しようという二つの道があります。
あなたが具体的に何を求めているかによって合う道は異なるかもしれません。またここで色々なお話をお聞かせください。
連れて行ってもらう
こんばんは。私は浄土宗ですので、極楽の教えの宗派です。極楽とは、「行く」というより「連れて行ってもらう」ところです。「お迎えが来た」と言いますが、あれは「極楽浄土の阿弥陀様という仏様が、向こうまで連れて行くために迎えに来る」という意味なのです。
そのためには、日頃から「南無阿弥陀仏」を口癖にすることです。自分の至らなさに気づいた。命の儚さに気づいた。自分の凡庸さに気づいた。そんな「自分にはこれ以上できない」に遭遇したら、南無阿弥陀仏をとなえます。その日々を繰り返すことで、お迎えをいただきましょう。それが私たちの宗派の教えです。
さて浄土宗について一般的に述べましたが、あなたがここで問いを起こしたのには、何かきっかけがあることでしょう。問いは短くても、それに至る経緯は人それぞれ。よかったら、その辺りを書いてくださると、よりあなたにフィットした答えを得られるだろうと思いますよ。
ご質問ありがとうございます。
浄土真宗だと思いますので質問に対する回答は他のお坊さんにお任せするとして、少しお伝えしておきたいことを感じましたので書かせていただきます。
それは、安心して生きてください、ということです。
阿弥陀様は必ず救ってくれますから、お迎えが来るその時まで生きてください。
生きづらい世の中、生きづらい状況かもしれません。ですが、できることもあると思います。やりたいこともあると思います。
できることをやっていきましょう。
やりたいことを少しでもやっていきましょう。
この世は辛いことや醜いことが多いです。
しかし美しい自然の風景もあります。友人や病院の看護師さんやその他にも優しい人もいます。心地よい音楽も見とれるような絵画もあります。
今のこの世は極楽浄土とはいえないでしょう。
それでも良いところもたくさんあると思います。
お釈迦様もこの世の自然は美しい、瞑想は楽しいと言われたそうです。
極楽浄土から必ずお迎えが来ますから、それまではあなたにとってこの世の美しいものや楽しいことを探してみて欲しいと思います。
南無阿弥陀仏
既に救われている
ご質問拝見させて頂きました。真宗の考え方では、極楽は自力で行く場所ではありません。阿弥陀様が住まわれている極楽浄土に導いて頂くというのが正しいかと思います。そのためにするべきことは基本的に1つだけです。もう既に私たちが浄土へ行くことが決まっていると阿弥陀仏はおっしゃっています(四十八願)ので、それをただただ信じて(わき目もふらないで)南無阿弥陀仏(阿弥陀様、ありがとうございます)と感謝を心よりお伝えするしかない、と言われています。宗派によりこの考え方が違うのであくまで真宗は、ということでお伝えします。 合掌