hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

魂入れについて

回答数回答 1
有り難し有り難し 5

どの宗派にもご本尊様はいらっしゃいますが、そのご本尊様方の仏像を自宅にお迎えする際、魂入れをして頂かないとなんの意味もなさないとよく伺います。確かにそうなのかもしれませんが、信仰心を持ってして、帰依する一心でご本尊様をお迎えすることにも意味はなさないと思われますか?(魂入れをしないまま という意味です。)現在私は居住環境により仏像なくしてお念仏を申しておりますが、ご本尊様のお姿を日頃より身近に感じ感謝とともに供養させて頂きたいと思っているのです。

2024年7月18日 17:21

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私的意識や所有、私見を離れる為にこそ魂入れは大事です。

仏像というものは、この世に存在するすべてのオフィシャルなもの、公的なものの中でも「もっとも公的なもの」と為すべきもの、なされるべきものなのです。
もちろん誰もが自分で仏像を入手するわけですから、自分が買ったもの、自分で得たものと思うものでしょう。
ですが、それではいけないのです。
自分のものとせざる姿勢だ大事だからです。
仏教、仏のおしえ、仏の精神というものがそもそも誰かのものになってはならないものだからです。
世間を見回してみてください。宗教一つでも誰かがエゴで乗っ取れば宗教でありながらも宗教性すら失うのが人の世だからです。
本やCD、モノ、食べものなどは各個人のものになってしまうところがありましょう。
その感覚とこれっぽっちも一緒にしてはいけないものが仏像なのです。
知人に仏像コレクターがいまして、仏像をいっぱい集めています。
個人が個人の感覚で仏像を入手してお祀りをするというとどうしても自分流になる。目的も変わるのです。
他の人たちがちゃんとやるべきことを形としてやっている。それにも「訳」があるからこそやるわけです。ここでは書ききれませんので、記しませんが、最初から自分で仏像を彫って自分流にまつればいいじゃないかぁということであれば、開眼も誓願も菩提心も回向も不要でしょう。
お檀家さんのお宅に棚経などでお参りに伺いますと、なにやら映画シンドバッドに出てくるような謎の神様、手がいっぱい生えた憤怒神や金のな◯木の掛け軸をお祀りされている方もおられました。それは個人の趣味ということでは良いのでしょうが道元禅師も山人鬼神等に帰依すること莫れと言われますのも、ちゃんとした正しい形での信仰、人の心が、人の世全体が、みな心の進むべきあり方が等しく、正しい法に向かうようにを持つべきであることを言われているわけです。我流で良いならば宗派も要らないわけですから。
宗派というものもサンガ・僧伽といい、全体で和するありかたを維持するものです。自分が自分流でこうしたいという精神で仏教本来のものに向かわなくなる傾向になる。非公的で私的な仏教。我流の独自信仰。
そうなると、その仏像も遺産や個人の遺品という形にもなりましょう。
仏教はそんなことは望んでいません。物を所有する、渡す、布施、供養というものには「三輪空寂」という精神がある。
自分や相手、所有を離れる精神としても開眼は必要なのです。

2024年7月19日 8:41
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご教示頂きありがとうございました?

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ