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涅槃とはどんなところですか?

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お世話になってます。今日は前から疑問に思っていることであります。仏教の最終的な目的は全ての迷い、憂いを捨てて、真理を悟り涅槃に行く事だと聞きましたが、涅槃とはどういうところ、またはどういう状態なのでしょうか?浄土宗の極楽浄土とはまた違うのでしょうか?一説には完全な無になることという人もいますが。回答お願いいたします。

2024年9月13日 18:52

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の思いから影響を受けない心 いまそこあなたの その静粛性

人間は365日24時間、常に人間、生命体として平常運転です。
👶オギャーとこの世に生まれて以来、ひと時として生命活動が休まる時がない。
思考が騒ぎ立てなければ人はもともと安穏。
何かあるたびに、この身心は身体的反応、心理的反応をする。
そして心理的な反応があった直後に「なにか」「あれやこれや」を思い起こすでしょう。そしてその思い起こしたことの世界に赴く。非現実的な思いのワールドに向かう。それは妄想の世界。涅槃と対極的なボンノー、モーソーワールド。
涅槃というのは、ことありてことに転ぜられず、ものありてものに動ぜず、内にも外にも何が起ころうともただ「その通り」に過ごせている人間本来のしずけさ、やすらかさです。
静寂・静粛な面ばかりが取り上げられますが、自由で聡明で安らかで創造性に満ちて心地よい心なのです。
ご質問の「どんなところですか」という質問に関して申し上げますと、まず空間的な場所ではありません。
「心外に他土の往生を求めず」というのが道元禅師の説かれる聡明な人が救われるありようですから死後の世界の事でもありません。
生きている人の誰の上にでもどこにでもあります。
人は本当にそのことに出会っている時、そこに本当は私見を伴わせていないのです。心理作用が高速だからそこがわからない。だから坐禅をして、自己を見つめて自己の身心に何も心理的な伴われのないことを見出すわけなのです。
八大人覚という釈尊の遺言のお経にも記されているように、そのような心の処し方、過ごし方であれば人間のもともともっている涅槃というさま、涅槃という心の静粛性から外れることはないのです。
たとえば
少欲…であうことにあれこれ追求(ついぐ)しない
知足…受け取ることに限りをもってす(他事をまぜこぜにしない)
遠離…私的な見解をメインとさせない
守正念…非思量なる光景
精進…事実と六感との元々密接な関係性(余物がまざらない)
禅定…法に住して乱れない
智慧…聞思修によって証せられる
不戯論…法のありようから外れるような言動を慎む
仏教論好きな人は涅槃とか悟りというと自論が騒がしいものです。
ですが、それは論。思考の世界。
個人の思考の世界ではなく、我々の目前の事実の世界というものには、もともと人の見解が伴われていない静粛性=涅槃性をはじめから全うしています。
参禅とはそこを見極めんと志す者の集いの場です。

2024年9月14日 13:51
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。詳しい回答恐れいります。凡人の私はどうしても自己の感情に囚われてしまいます。また苦難がやってくるとやはり激しく感情を揺さぶられる今日このごろであります。頭ではわかっていますが感情をコントロールするのは難しいですね。ありがとうございます。

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