人生は結局他人次第ではないですか?
自分の夢を叶えるべく努力してきました。
望んだ仕事につくことができ、精力的に業務をこなしてきました。
しかし結局のところ、自分と取引をするかどうか
自分の商品を買うかどうか決めるのは「相手」です。
売れなければ自分の生活も夢も何もかも立ち行かない。
これでどうやって、自分次第だと言えるのでしょうか。
自分が「成果」を手に出来るのは、相手が買うと決めて
きちんと売れた時ではありませんか。
時にはこちらの商品の出来に関係なく、突然連絡が取れなくなる。
「いらない」「今後連絡は取らない」と言えばいいものを、
はっきりと断る「悪者」になりたくないが為に言わずにフェードアウトを狙う。
他人にとって、自分自身は取るに足らない矮小な存在で
そういう人たちの対応が当然だとも思います。
しかし取引を途中までしっかり進めていて
こちらに落ち度がひとつもなくても突然、大した理由もなく連絡が取れなくなる。
「めんどくさくなった」「忙しい」「他にやることがある」「今日は機嫌が悪い」
そんなことで自分の成果は決定されてしまう。
こんなことをもう何件も何件も何件も何件も繰り返されています。
全て相関関係のない、別々の取引先に。
そう思わせないような魅力的な商品を作れない自分が悪いと思って努力してきましたがもう疲れました。
あまりにも他者は不誠実で理不尽です。あらゆる約束は守られない。
自分自身がいくら頑張っても、相手が少しでも「めんどくさいな」と思えば、それで取引終了。
だったら頑張る意味も生きる意味も無いじゃありませんか。
他者に左右されない成果も夢もありません。
そしてそれを抜きに、生きる意味などありません。
好きで望んで頑張って就いた仕事の結果がこれです。人生に希望がありません。
仕事で成果を出すには他人の決定が必須で、それは自分にどうこう出来るものじゃない。だったら頑張る意味も、生きていく意味もない。
将棋の詰みと同じです。
自分次第で人生が良くなるとはとても思えない。
「仕事の成果を気にしなければ、気分よく生きられるでしょ」とも言われました。
でもそんなに簡単に価値観なんか変わりません。
好きな仕事の過程を楽しもうとした時期もありましたが、成果が出ないままそれを保つのは無理でした。成果が無ければ生活も立ち行きません。
死んでリセットする以外の方法があるんでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ほうげ じゃく をしてみましょう
禅の逸話に「放下著(ほうげじゃく)」というものがあります。
「本来無一物」=(全てに対する執着を捨て切った)お悟りを自負する弟子は、師匠である和尚に尋ねました。「私は全てを捨てて、もはや拘泥する何ものをも、もっておりません。この先どんな修行をすれば良いのでしょう?」と。すると師匠は間髪入れず「捨て去ってしまえ!」とおっしゃった。
弟子は納得のゆかず「一体何を?」と頭をかしげますが
師匠から「その、なにもない、との意識をどこまでも担いで行け!」と一喝されてしまいました。
これを、わかりやすく説明すると、とかく過去への未練やプライド、培ってきた思い込み、先入観、苦手意識が楔(くさび)となり、言い訳となって、新たな自分への脱皮を妨げ、自分で自分を苦しめてしいる。
ここまで、努力してきたのだから、相手はこの商品の良さがわからないんだ、自分が売れる商品を作れないから…、他者は不誠実で理不尽だ、
苦しいのなら捨ててしまいましょう。
何を捨てるのかはもぐらさんが決めてください。
捨て去ることは、勇気がいることですが人生はまだまだこれから
いくらだって変えられますよ、死んでしまうなんてもったない!
人生は心のおさめかた・処し方次第
1日と言えば丸亀釜揚げうどんの日ですが、お店も誰も呼んでないのに客が押し寄せるのでしょうね。お店にとってはウハウハでバイトやスタッフにとっては一日戦場ハズレ勤務日です。
他人次第ですねぇ。
ですが人生、他人次第だ、自分次第だという口も思うアタマもわが身にあります。
性能も活動内容もみな異なります。人は人から必要とされなければ「いけない」とか承認されなければ「いけない」というわけではありません。
昨今よく言われる承認欲求ということも私は誤った考えだと思います。
人生における「価値」とはなにか。ただ人から必要とされ、承認されることばかりに焦点を当ててしまうと、それができない人間はどうなるのか。箸にも棒にも引っかからないあぶれた人間であぶれてしまう。高齢者や健康ではない人は役立たずな人間という扱いになってしまう。
つまり、多くの人たちがこれ良かれと思って「こうすることは人生における有意義な生き方だ」と思って一生懸命やっている方向性やスタイルとは実は必ずしも正しいとは限らないものなのです。それをやった結果、苦しい、上手くいかないのですから。
一世を風靡した著名人たちでもその後、堕落脱落の人生を歩んでいる人だって多いでしょう。
あなたも別に承認欲求だけを満たそうとはしていないでしょう。
ですが、それに関連する願望が心理の奥底にあるようにも見受けられます。
まず、そこを見つめ、見つめなおしましょう。人生において、そしてこの世の真理に沿った生き方を問い直すべきでしょう。今がその時期であるといえましょう。
あなたがあなたの主観であなたの思ったことがあるように、他の人にもそれはある。同じなのです。
ですが、それは単なるマイストーリー、自分の思い描いたこうであってほしいと思う自分ごしのビジョンに過ぎません。
論破や価値負けや自分の思い描いたストーリー通りに行くか行かないかだけが人生のすべてではありません。そこに強く価値を置いているというだけのことです。
今回のことを学びとなして、ガラリと価値観を変えるというのでもなく、より確かで傷つくこともなく間違いのない道理を追求されると良いでしょう。
質問者からのお礼
ありがとうございました。
単に、成果が出せなければ儲からないのですから、生活に困ります。
有名になりたいとか認められれば儲かるみたいな事は書いていません。
逆に認められれば儲からなくていいとも思いませんし、認められるなど以前に
対価が支払われないこと、対価を含む成果が得られない事に疲れています。
自分の頑張りに関係なく、それらは他人が決めることだからです。
仕事を変える事が出来るとも思いません。もう若くありませんし資格を持ってるわけでもない。
望んだ仕事を捨てようと思っても、望んだ仕事でこれなんですから
望まず就いた仕事でどうなるかなんて考えなくてもわかります。
何をしてもこれから人生が良くなるということが全く考えられません。
自分自身が変化したとて、結局成果は他人が決めますし
その成果で生活費が増減する以上、もはや何もかも無駄に思えます。
今思いましたが、自分は仕事をしているのではなくてただ乞食なのかもしれない。他人に飯を恵んでもらっているだけで、他人の迷惑か、それこそ「与えてやった」「助けてやった」という他者の承認欲求を満たす餌になっている存在なのかもしれません。他人の同情で飯が食えるならいいだろうと思われるかもしれませんが、そんなものでいつまでやれるか。そろそろ限界で終わりという時期も近いでしょうから、結局は死が最も救いに思えてなりません。
ありがとうございました。