手に入らないものほどよく見えるはなぜか回答受付中
手に入らないものほどよく見えてしまうのはなぜか
今あるものに満足できず、なかなか手に入らないものほど魅力的に見えてしまいます。
例えば、現在ありがたいことに仲良くしてくれる友達が何人かいます。なのに、もう疎遠になってしまった友人のことをすごく考えてしまいます。
「疎遠になってしまった友人は縁がなかっただけなんだ」「今仲良くしてくれる友人を大切にするべきだ」と自分に言い聞かせているのですが、どうしてもその疎遠になってしまったかつての友人との思い出が輝かしく思えてしまうのです。輝かしいだけではなく時にはかつての思い出と今を比べて苦しくなってしまう時があります。あのときはすごく楽しかったのに、今はなんてつまらないのだと思ってしまいます。
なぜ人は手に入らないものほど魅力的に思い、手に入れたいと思ってしまうのでしょうか。仮にその疎遠になった友人とまた縁が戻ったとしても、また他の手に入らないものを欲しいと思うだけで、満足はすることはないのでしょうか。この苦しみを手放すにはどうしたらいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
求める欲。周りと変化の波に乗っていくことも。人生の味わいに。
人間って勝手なもので、過ぎてから大切だったと感じたり、思い出が美化されたり、失って気づくこともたくさんありますね。失ったというより、自分から手放したことだってあるでしょう。あの頃は、次のものに関心が移ったり、輝かしく思えたり。流行もそうやって時代をつくってきたのでしょう。
人間には、求める欲があります。自分は留まりたいと思っても、周りがそうさせてくれず、自分だけ取り残されないように、周りと一緒に変化の波に乗っていくことも。疎遠にならざるをえない状況があったのでしょうね。
どんな思い出も、今の自分に繋がる経験ですね。だから、過去がよく思われ、また今を見つめ直したり。永遠に続くわけがないから今を大切にしなきゃと、先を生きる人から教えられたり。そうやって人生を味わい、深みある大人になっていくものなのでしょう。
いろんな経験を重ねると、欲の中身も変わっていきますし、それほど求めなくても人生を満足していけるようにもなりますよ。
だから、今は感じるままに現在や過去に気持ちを揺らしながら、歩めばいいのではないかしら。
欲望も苦しみ(ウズウズ)
欲望もまた苦しみです。
例えば背中をかきたくてもかけないときのウズウズのように、手に入れていない魅力的なものを意識すると、手に入れたいという衝動が大きくなりますね。
疎遠になっている友人と再会できてその欲望が解決しても、また新しい欲望・苦・不満・ウズウズが発生します。
仏教では一切皆苦と言います。
六根(眼耳鼻舌身意)、六境(色声香味触法)で感じるあらゆる刺激や情報は苦なのです。
生きている限り苦しみは無くなりません。
ただ、瞬間ごとに苦しみの形が変わっていくだけなのです。
ということで、「逃した魚は大きい」と思えてしまうのは誰にでもある普通のこと。
世の中そういうもんだ(隣の芝は青く見える)と諦めるしかないですね。