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過去の罪ですごく苦しい

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自分は、過去に親を謗った五逆罪と仏教を謗った謗法罪を犯しました。

ですがその後阿弥陀仏の救いを知り、一時期は救われました。
ですが大乗仏教は、お釈迦様の入滅後にできた物と知りました。

なのでもし阿弥陀仏様の救いがなければ自分の業によって地獄に落ちます。
家族だって落ちてしまうかもしれません。

それがどうしても嫌なのです。
テーラワーダ仏教では五逆罪や謗法罪を作った場合、善行によって罪を軽減できるだけで地獄に行くのは回避できないと教えがあるようです。(間違っていたらすみません)

ですがそもそもお釈迦様は死後の事は何も言わなかったや、言ったが細かく言ったわけではないなど、どれか正解か分からず混乱してます。

せっかく阿弥陀仏の救いに出会えたのに素直に信じない自分は本当に愚かだと思います。
ですがもし救いがなかった場合が怖いのです。将来地獄に落ちるのなら今幸せになっても意味がないと、自分では思っています。

どうかこの苦しみを取り除いていただけないでしょうか
将来地獄に落ちるかもしれないという恐怖や不安を。

もしお釈迦様がこのような者に対して説いているお言葉があれば教えていただきたいです。
何度も同じような質問すみません。

2024年11月26日 22:15

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

世間の懺悔と正伝の仏法における懺悔とはまるで異なるものです。
仏教でいう懺悔というものは人間の一念心を完全に断ち切ることなのです。
あなたがそもそも自分は五逆罪だ、罪深い人間だァと思い始めたのもそもそもの一念心が始まりのはずでしょう。テーラワーダも派によっては人間は汚れているような思い込みをさせるところもあるようですが、そもそも自分が汚れているとか、そんな風に思う必要などあるのでしょうか?どうして今日の天気一つにしても人間の思い方がまるで付着していないのに人は思いを優先するのか。世界に仏さまの日めくり、秒めくりカレンダーがあるとしたらきっとめくる毎にいつも清らかであるはずでしょう。いつまでもお前は罪深い人間だァなどと裁かれなければならないのですか?地獄に落ちる、陥るということもそのような思い方を自分がすることによって自らの心を縛って苦しめてまさに生き地獄に自分で追いつめている訳でしょう。
誰がそのように考えているのでしょうか?
誰からその様に習ったのでしょうか?
いつからその様に思うようになったのでしょうか?
そして、そういう風に考えて心を苦しめているのは、どこで、いつ起こっているのでしょうか?
みんな自分が毎回、そこで、今やっていること一念心に過ぎません。
その一念心の根源を知る。
この世のものごとというものは、いつでもどこでも誰の上でもいつでもフレッシュです。いまだ誰もお手つきをしていません。過去の状態を認めて、掴んで、固定的に眺める者、アタマの上で観念的に眺める者は、今のフレッシュな現実を観ることをせずして、自分の頭の中で考えて掴んでいる妄想の方を優先させますから、いつまでたっても固定的な見解から脱せないのです。
阿弥陀様も、上座部仏教も、正伝の仏法も、大乗仏教も、どれも仏の教えに違いはありません。それを私的な見解でこうではないだろうか?と思い誤る事こそが内なる地獄心理の誕生なのです。人間というこの生命体もいつも真実のすくいを最初からあらわして、示してくれています。
諸念は一念に過ぎません。
その一念の正体をきちんと見届けて、思いや考えをはなれた無垢清浄の事実に目を向けて、自分の負の思いから影響を受けることのない心を会得することで人は救われるのです。
今、ここ、その事、その事象。そこにはまだあなたの負の思いのお手つきはありません。いつも清らかな姿をしています。

2024年11月27日 1:00
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。 

確かに自分の勝手な見解で、自ら生き地獄に追い詰めていました。
一度、無垢清浄の事実に目を向けるようにします。
なるべく自分の負の思いを受けないよう頑張ります。

ありがとうございました。

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