高齢の父親への気持ち
こんにちは。数ヶ月前に高齢の父親の透析になるかもと心配の悩みを聞いてもらいました。あれから腎臓はどんどん悪くなり、もう透析する準備をする事になり、最近シャントの手術をしました。かなり痛かったらしく数日経ってもまだ痛いみたいです。腰もどんどん悪くなり、もうほぼ2つ折りのように痛みをこらえて少ししか歩けません。病院通いも、病院まではタクシーで行きますが、病院内をあちこち回るのが苦痛のようです。
そんな親の痛みや辛い話を聞くと、とても辛い気持ちになります。私も痛いのは嫌ですが、親や家族が痛い思いをすると自分の事以上に辛く思い落ち込みます。
しばらく元気が出なくなります。私がどうにか出来る事でもないのに。
そんな自分も嫌ですし、どうしたら少しでも考え方を楽に出来るのだろうかと1人で考え込んでしまいます。どうしたらいいでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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慈悲の瞑想
体のことは本人にしか分からないのですが、その様子が、周りの近しい人にはなんとなく伝わります。
そこで一緒に痛んだり苦しんだりしてしまうと、心の様子はどうしても外に出て周りに伝わるので、共倒れになるだけです。
自分はしっかりしたまま、相手の苦しみがなくなるようにと願う自分の強い気持ちを持つと、世話することに飲まれず、まず自分が、使命としてしっかりできるようになります。
その気持ちが相手に伝わるので、一緒に心で苦しまれているよりしっかり心配してくれる方がよほど安心できて、相手の心が楽になります。体の苦しみも、ただ体だけのことだと少しはしっかり対処できるようになり得ます。看護師や介護士の仕事の仕方は、こういう心がまず先にあると思います。
日本では「痛いの痛いの飛んで行け」くらいしか伝わっていませんでしたが、日本テーラワーダ仏教協会を作ったスマナサーラ長老が、仏教の慈悲喜捨の心を「慈悲の瞑想」として日本語で広めています。協会のホームページに出ています。
慈悲喜捨の善の気持ちを、自分、周りの生命、一切衆生に広げて、自分が自分の心を強くするという、自分の成長がまず先に目的なのですが、その2番目・悲が、「悩み苦しみがなくなりますように」という願いです。神とか何かにどうにかしてくださいなどと祈るのではなく、自分が、そうあれかし、と、強い心で願うのです。
お父さんに対しては、「私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように」と、願うというより、心の中で念じます。
あんなに強かったお父さんがどうして?とか私も大変なのに、などという感情的な心ではなく、冷静な、客観的な気持ちで、どんな生命もだんだん老いて病んでやがて死ぬのだ、私もやがてこうなるのだ、としっかり受け止めながら、しかし自分にできることはやるぞ、と、誰よりもまず自分のために頑張ります。
この気持ちでいるだけで、お父さんにとっては、自分専門の看護師がついてくれるような安心感が生まれるでしょう。
体や物質的な面ではできることに限界があります。心だけは無限で、どれほど強くも弱くもなるので、正しく強くして、体に無理なく客観的に頑張ってください。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
なかなかすぐに気持ちを切り替えるのは難しいですが、思い詰めず頑張ってみます。
悩みや苦しみ、痛みがなくって欲しいです。生きてる以上全くなくなる事は無いですね。