お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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どうせ死ぬ。迷ったときは情報不足
もちろん闇雲に無鉄砲な行動をする必要はありませんが、どうせ死ぬ人生ですから、なるようになると思って良いと思います。
南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えれば誰でも極楽浄土に往生できると、浄土宗では考えます。
なむあみだぶなむあみだぶと念じれば人生のハッピーエンドは確定しているとニンマリできるので、大概の問題は「まぁいいか」と乗り切れます。
あと、判断(選択肢)に迷っているときは、判断材料の情報が不足しているときだと思って、新しい情報を得るために一歩動いてみても良いでしょう。
今ある情報だけでは先が見えない、先が見えないから何となく不安や恐怖が出てくる。
「こうなるリスクがあるので、そのときはこうすればよい(こうする外に選択肢がない)」と情報があれば、与えられた選択肢がそれほと良いものではなくてもそれしかないのだからと覚悟できるかもしれません。
不十分な情報の中で思考の堂々巡りに陥るとストレス(不明瞭な不安や恐怖)になります。
今ある情報で10分考えても10時間考えても大差ない、それなら思考を一旦止めて別のことをやった方がマシだと思いましょう。
また、今ある情報の中ですぐに判断しないといけないが迷っているときは、現時点では選択肢の価値が同等なので、サイコロで選んでも良いくらいだと思いましょう。
また、サイコロの代わりに「私はこっちの方が好きだから」というワガママで選んで良いときだと、迷ったときこそワガママ言って良いときだと開き直りましょう。
それもあんもちさんの一部
相談いただきありがとうございます。
なるほど、「うじうじしてる自分が嫌?」なのですね。
でも、そんな自分もいたってことでいいのではないですか?
あんもちさんは、ちゃんと自分を直視できてる時点で、世の中の多くの人間よりよっぽど立派です。
結局のところ、人間なんてみんな煩悩まみれです。
僧侶だって似たようなものです!
わたしでも感情に振り回されることだって、過去に固執することだって何度もありあります。
でもそれって 必死に生きてきた証拠ではありませんか?
他人の目を気にすることだって、つまり社会性があるってことです。
要は、「あたしってダメだ〜」ってクヨクヨする時間がもったいない。それを考えてる間に、今この瞬間にできることを一個でもやりなさいって話です。
もし、あんもちさんにパートナーがおられるなら、今日できる最高のことをしてみる。
生きることに色々な悩みが生まれるのは当たり前で、そんなの「だから何?」って割り切ってみませんか?
完璧な人間なんていないし、「今の自分」を受け入れられた人間が一番強いのです。
堂々とした人間になりたいなら、「こんな私でもやることやってんのよ」って胸張って言えるようにしませんか。それが堂々とするってことですよね。
まずは、「動くこと」ここを目標に!