執着を手放す回答受付中
人への依存の断ち切り方が
分かりません。
自分に自信が無く
優しくされたら、その人に
依存してしまう事が多いです。
昔から甘え癖があります。
今、現在も人に依存している
最中です。
お付き合いをしていた方がいて
私が未熟だったせいで
イライラして酷い言葉を
言ってしまったのが原因です。
謝罪をして
許してもらえましたが
その人とは別れることになりました。
私が傷付けたのだから
別れることになったのは
当然、仕方のない事だと
思っています。
しかし頭の中から離れず
いつまでも考えてしまいます。
執着をどのように手放したら
良いのか分からないため
ご教示いただけますと幸いです。
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
どんな自分も、ちゃんと褒めて、認めていこう。自分を大切に。
プロフィールも読ませてもらいました。育ってきた環境の中で、周りへの頼り方や関係性を築く経験が乏しかったのかもしれませんね。ですから、確かめないと不安になったり、相手の行動にも求め過ぎて、気持ちを押し付けてしまうのかもしれませんね。
依存や執着は、自然な反応でもあります。大切なもの、必要なことには、気持ちが寄せられますし、手放したくないとしっかり掴んでいたくなります。
ですが、そのことによって、自分を追い込みしんどくなったり、相手や周りの人を傷つけてしまっては、独りよがりの押し付けになり、残念な愛し方になってしまいます。
頼れる関係、甘えられる関係、愛する関係には、依存や執着も生まれますが、相手を大切に感じ信じられる存在であり、相手を尊重する対等な付き合いがあってこそ、良い関係が築けるのです。
あなたは、どうだったでしょうか。自分の想いばかりを押し付けてしまったのかもしれませんね。
自分を大切に、自分を受け入れていきましょう。
どんな自分も、ちゃんと褒めて、認めていきましょう。
自分を尊重できるから、相手のことも尊重していけるのです。
そうすることで、相手の存在が頼りであったり、支えであっても、依存や執着を強めることなく、一緒に歩いていくだけの自信を持っていけます。
依存と執着の違い
はじめまして。お疲れ様です。辛い体験について、ご自身を振り返られたこと、まずは尊いと感じます。そして。依存と執着の関係について、まずは捉え直しては如何でしょうか。
依存というのは、「何かとの関係があってわたしが成り立っている。例えば、親がいるから子という私がいる。衣服があるから風邪をひかずにいられる」といったものです。それに対して執着とは、「万物は移り変わっていくのに、それを留めたいと願う」ことです。
ですので、私たち坊さんは仏教なり仏様に依存してますが、その口で「執着からは離れましょう」と言うわけです。
なので、依存というのは普通のことで、あなたが苦しんでいるのは執着の方、なのでしょう。
だからまず「依存はしてよい。ただ、なるべく確かなものに依存しましょう」ということと、「物事が移り変わることを受け入れましょう」というのが執着から離れるということです。
ただ案ずるに、あなたは「自分の判断なり感情を、他人に預けてしまう」ことに問題を感じておられる。過度な依存=自分ごとを他人に預けており、その状態を維持したいという願いが執着となっているのです。
だから。
まずは依存自体は許しましょう。しかし「何について依存するのか」の役割分担を意識してはどうですか。収入は仕事に依存し、雨風を凌ぐのは家に依存し、悩みを打ち明けるのは家族なり坊さんなりに依存する。役割分担を意識することで、多くの依存先があることを発見する。そうしていくと、依存先の一つが変化しても、全体としては比較的に安定を保てる。そうして多くの事柄や人に依存の可能性を認め、自分に合った依存先を選んでいく。それは縁でありお互い様の世界の入口です。
さて、あなたが恋人に依存していたのはどの部分ですか?「全て!」と答えたくなるかも知れませんが、少なくともその人を選んだご自身は、どこかにあるはずです。「この人には甘えられる」と感じ取ったあなたが。
とりあえず、あなたの「甘えたい」は私たちが引き受けます。ここではどんなに弱音を吐いても構いません。
しかし、全てを受け止めるのは、私たちでなく仏様の役割です。一先ず「坊さんに依存しよう」というあなたの判断は悪くない。ご自身で判断している事実を、まずは認識して下さい。
そうやって、多くの相手と依存し合っているのが、実は豊かな人生というものだと、私は思います。
執着心の手放しについて
執着心の手放しについて
依存するのは自分に何か足りないと気づくから生じる心の動きではないでしょうか。その時は、今の自分に満足できていないので他の者に頼るようになります。
自分一人でいることに満足できれば、不要な欲望や執着は起こりません。
「あれが欲しい、こうなりたいという要望は、叶えられることを持って、満足となります。一方、今、此処にただ居ることで満足なら、未来や過去に望むものが無くなります。しかし、今此処にただいることで満足することは、なかなか難しいです。
よく、お風呂に入って、『極楽!極楽!』と申しますね。それならば、今、此処にただ居ることを、「極楽!極楽!」と感じてみましょう。すると、音や色や形、風景などが、ただ過ぎ去るものと感じられます。その時にタンハー(渇望)が停止し、執着心が無くなっているのかもしれません。」
執着心を止めるには、瞑想やヨガが有効とされています。
美しい朝の屋外でのヨガや瞑想をなさってみてください。
ゆっくり深い呼吸をして、今、此処が「極楽!極楽!」と念じてみましょう。
心がと整ったら、不要な執着は起こらなくなるでしょう。
心の映画(念)への出演時間を減らす
心は無常であり、思考や感情は瞬間ごとに浮かんでは消えていきます。
思考や感情を映画に、意識をスクリーンに喩えるなら、映画に黄色いバナナが映っている時間はスクリーンが黄色に見えますが、映画が終わればスクリーンは白い布に戻ります。
バナナについて考えているときは、意識の中心にバナナがいますが、バナナのことを忘れているときは意識からバナナは消えてしまいます。
執着の対象や、欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩(悩みの原因となる悪の心)や、過去や未来や自分や他人に関する妄想雑念等も、それらは心の映画であって、その映画が停止している時間には、執着や煩悩や妄想雑念が停止します。
ここで実験。
口で「あいうえお」と言いながら同時に意識で「12345」と念じてみる、それをできるだけ隙間なく連続で何回かやってみてください。
おそらく、そのときは脳みそが忙しくて、執着対象のこともすっかり忘れて「あいうえお」「12345」が心を占めます。
執着対象という映画は、スクリーンを一時的に彩るけれど、白い布であるスクリーンに染みを着けるわけではない。
雲は月を一時的に隠せても、雲は月を壊せない。
心の時間(念)において、執着対象のことを考える回数や持続時間を減らしていき、スクリーンがただの白い布に戻っている時間を増やしていきましょう。
また、忘れているときは執着していないも同然だ、執着の映画は停止可能だと安心してくださいね。
また、例えば「南無阿弥陀仏」と念仏を称(とな)える時間は、心の映画の主人公は南無阿弥陀仏になるなど、意図的に別のものにご出演いただくことは可能です。
その場合は、慈悲等の善の心や安心感につながるような念(心の時間)を演出しましょう。



午後から夜の時間帯は都合がつきやすいです。
◆こちらから、無理に聞き出すことは致しません。
言いにくいこと、言えない気持ちも大切にします。あなたのお気持ちのままに、ゆっくり待ちながら、その気持ちを大切に受け止めたいと思っています。
◆自死で大切な人を亡くされたり、死別により 死が受け入れられなかったり、心の整理がつかない方へ。30分ずつでも、オンラインで定期的に気持ちに向き合っていきませんか。吐露したり泣ける時間も、大事なグリーフケア 。
◆個別電話ってドキドキして勇気のいることだけれど、声が届くから、聞こえてくるから、ちゃんと繋がっているようで、そばにいるように安心出来ることもあります。
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◆出来るだけ希望時間にお応えしたいと思いますが、午前中は毎日 法務があります。
(相談は、hasunohaオンライン相談より受付下さい。お寺へのいきなりの電話相談は受けていません。法務が優先なので)
◆一人で悩まないで。待っていますね(﹡´◡`﹡ )