般若心経について教えてください
息子が亡くなってから供養のために写経をしています。たまたま近所のお寺で写経会をしていることもあり月一ペースでそちらに参加しています。
般若心経の読み方や訳が書いてある紙を見ながら息子のことを思い写経をしているのですが、どうも般若心経は生きている人のためのように感じてしまい「故人のため」に写経をするという目的にギャップを感じています。
〇ありがたいお経なので内容は問わず供養になる?
〇私の受け取り方が違っており、「私が供養をする」ということではなく「故人がお経そのものを受け止める」のだからそれで間違いないということ?
〇単に勉強不足で般若心経をもっと理解できれば疑問は解決する?
〇苦しいことを苦しいと認めれば苦しみもその原因もなくなる…というような訳ですが、そこも違和感です。
自分が老いや死から逃れようとして苦しむなんてことはないですが、大事な人を失ったことは認めても苦しいし、その原因もなくならないです。
お寺に通い始めて1年半くらいは仏様の前に座ると涙が止まらず嗚咽が出てしまっていましたが、仏様に少しずつ癒されてきたのか自宅以外で泣くことは我慢できるようになりました。
それが苦しみを認めることができたから、ということなのでしょうか。
お寺に伺った時に住職様に質問してみたいことはたくさんあるのですが、世間話はできてもこういったことを口にするとまた嗚咽で話せなくなりそうなのでここで質問させていただきました。
まだまだ日にち薬は必要なようです。
よろしくお願いいたします。
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
先立つわが想いとは別のところにある真実の道理
亡き息子さんの法の位を高める為にやってあげていると捉えてみてはどうでしょう。
これは息子との共同作業なのだ、と。
人はこの世で同居された方とは、どちらかが先立たれたとしても、関係は続いていくものです。ましてや愛する家族であればなおさらのことです。
ご質問の内容に沿ってお答えさせて頂きましょう。
「どうも般若心経は生きている人のためのように感じてしまい故人のために写経をするという目的にギャップを感じています。」
👉お子さんはお母さんの中で生きています。息子のために、という気持ちが生じるということは、お母さんの中で今も作用体、影響力、法身として毎日現れ続けておられるのですから「共に生きている」のです。ですから、生きている人のためで間違いありません。
〇ありがたいお経なので内容は問わず供養になる?
👉お経というものは最上最高の善玉菌だと思えばよいでしょう。
〇「私が供養をする」ということではなく「故人がお経そのものを受け止める」のだからそれで間違いないということ?
👉故人も私もお経で説かれているところの法そのものになりゆくということです。法とはダルマ。人類みんなが救われる救いの働きの事。誰が受け取っても救われる内容を顕しておられるのです。名曲、名著、名品のようなものです。
〇般若心経をもっと理解できれば疑問は解決する?
それはあります。般若心経を理解するということは法を知ること。自己の真実の姿を知ることだから、自己を明らかにすることがそのままお経の会得にもなります。
〇苦しいことを苦しいと認めれば苦しみもその原因もなくなる…というような訳ですが、そこも違和感です。
👉それは訳が違うのでしょう。苦とは苦しいではなくドゥッカ。思い通りにならないことや、人間の価値観の影響の及ばないこの世の無色透明の事実や出来事そのもののことを「ドゥッカ」というのです。だから、人間の願いの及ばない絶対的な事実の真実のさまを認めれば当然、苦しいことが無くなるということです。
○大事な人を失ったことは認めても苦しい、原因もなくならない。
👉真実に向き合うということは、私がこのように思っている…!と、いうことがアタマの中で生ずる「前の事実」を見い出すことをいいます。
ああ、私が失った、私のせいだ、私の大切な人を…こういうことをやっておられますでしょう。実はそれですら人間の先立つ思いなのです。
「私」と「子供」の生死に区別はありません
ご存じのとおり般若心経は空を説くお経です。
空とは何かと簡略に言うことは難しいですが、私たちが経験する自他の生死の視点から見るならば、自他の区別は成り立たない、ということがポイントになります。
「私」と「あなた」、「親」と「子供」という区別は、まわりから受け取った刺激を自分の都合で勝手に区別し、判断して作ったイメージです。このはたらきを我見といいます。
たとえば、大きな雲と小さな雲が浮かぶのを見て、「お母さん雲と赤ちゃん雲」と思うかも知れません。しかし、実際には雲に親子関係はありませんし、そもそも雲自体が、空気中のどこにでもある水蒸気がある条件によってある範囲に集まっている現象にすぎません。見た目にはまぎれもなくあるように見えても、子細に観察すれば、どこにも輪郭はなくどこにも区切りはありません。
私たちを含めたすべての生命もこの雲のたとえのように、まぎれもなく個々にあるように見えますが、どこにも輪郭は存在せず、どこにも区切りはありません。それぞれ五蘊と呼ばれる生命存在の要素が因縁によって仮に和合しているだけです。
「私」と「子供」はまぎれもなく別の存在のように見えますが、子細に観察すれば、どこにも区切りを見つけることはできません。このように自分の都合による区別=我見を離れてとらえられる事物存在を「空」と表現しています。
我見を離れた仏の智慧で見るならば、自と他は別のものではありません。これを「自他不二」と言います。そもそも自他の区別が成り立たないのですから、私の生死と子供の生死を区別することはできません。
仏は別のお経(法華経)で「私の肉体が消滅した後でも、私の言葉を受け取り、読んで、研鑽して、その教えにそって精進しなさい」と弟子達を励ましています。写経はまさにこの精進を形にしているといえます。
私と子供は別のものではないと納得して、仏の教えにそって精進するならば、それは私の生であると同時に子供の生でもあるわけです。私の写経の功徳は、そのまま子供の功徳であるのです。
仏の智慧を知るには時間がかかり、また段階があります。(1)なるほど、と知識として理解する段階、(2)腑に落ちて疑いがなくなる段階、(3)教えにそって自然に生きる段階、の3段階があるといわれています。
自分の精進がそのままお子さんの精進になると心に置いて、おつとめされるとよいのではないでしょうか。
お経による功徳と回向
お経を読んだり、書いたりすると、功徳を積むことができます。
そして、その功徳をあなたが願う相手(天国にいる息子さん)に回向する(振り向ける)ことができます。
お経の内容とはあまり関係ありません。
以前に般若心経を訳したことがあるので、ご参考までに以下に掲載します。
(ちなみに般若心経は私の大好きなお経です)
観自在菩薩が、深遠なる般若波羅蜜多の修行をしたとき、
五蘊(人間および世界を構成する五つの構成要素)はすべて空であることをはっきり見極め、一切の苦しみと災いを乗り越えた。
舎利子よ。
(五蘊の五つの構成要素のうちの)色(物質要素)は空に異ならず、空は色に異ならない。
色はすなわち空であり、空はすなわち色である。
(五蘊の残りの四つの構成要素の)受(感情)・想(認知)・行(意思)・識(知性)もまた、その通りである。
舎利子よ。
すべてのものは空を特性としており、生ずることもなく滅することもなく、汚れることもなく清らかになることもなく、増えることもなく減ることもない。
それ故、空においては色はなく、受・想・行・識もない。
眼・耳・鼻・舌・身・意はなく、(その対象である)色・音・香・味・触・法もない。
眼によって起こる視覚、知覚によって起こる意識もない。
(十二因縁の初めの)無明はなく、また無明が尽きることもなく、(十二因縁の終わりの)老死もなく、また老死が尽きることもない。
(四諦の)苦・集・滅・道もない。
智もなく、また、得るものもない。なぜなら、得るところがないが故に。
菩提薩埵は、般若波羅蜜多を依りどころとしているが故に、心に妨げがなく、妨げがないから、恐怖もない。
一切の誤謬や夢想から遠く離れて、究極の涅槃に入っている。
過去・現在・未来の諸々の仏たちも、般若波羅蜜多を依りどころとしているが故に、阿耨多羅三藐三菩提(無上の真実なる完全な悟り)を得た。
故に知るのだ。般若波羅蜜多は霊妙な真言であり、明快な真言である。
無上の真言であり、比類なき真言である。
一切の苦を取り除くことができ、真実であり、虚しいものではない。
故に説くのだ。般若波羅蜜多は真言であると。
すなわち説いて、真言にいわく、
ギャーテイ、ギャーテイ、ハラギャーテイ、ハラソウギャーテイ、ボージーソワカ。
智慧の核心を説く経。
悲しみと、ともに生きるとは
ご質問ありがとうございます。
結論から申し上げると、感じておられる違和感はとても自然で、間違いではありません。
般若心経は本来、亡くなった方のためというより、今を生きる私たちの心の執着をほどく教えです。ですので、「故人のために写経しているのに、自分の生き方の内容に感じる」という感覚は、むしろ正しく受け取れていると言えます。
ではなぜ供養になるのかというと、仏教では回向という考え方があります。写経や読経という行いで生まれた功徳や祈りを、故人に手向けるというものです。つまり、お経の内容そのものを故人が理解するというより、あなたの祈りや想いが形となって届くと考えます。
また、「苦しみを認めればなくなる」という点に違和感があるのも当然です。大切な人を失った悲しみは、認めても消えるものではありません。般若心経は「苦しみがなくなる」というより、その苦しみだけに縛られきらない心の在り方を示している教えです。
そして、お寺で以前ほど涙が出なくなったことも、「悲しみが消えた」というより、悲しみと一緒にいられる時間が少し増えてきた状態かもしれません。
写経は、息子さんを忘れるためのものではなく、
息子さんを想いながら、
自分の心が壊れ切らないように、
仏さまの言葉に手を添える営みです。
だから、疑問を持ちながら写経していても大丈夫です。
むしろ、その問いを抱いて書いていること自体が、
すでに供養の中にあるのだと思います。
そして、息子さんのために、
こうして手を合わせ、想い続けているその姿を、
きっと息子さんは見ているのではないでしょうか。
悲しみは、なくすことはできません。
けれど、
その悲しみと一緒に、少しずつ前を向いていくことはできます。
その歩みこそが、
息子さんへ向けた、何よりの供養になっていくのだと思います。
質問者からのお礼
丹下覚元様
回答ありがとうございました。
息子は私の中に生きており「共に生きている」
実はまだそのような気持ちになれず、
『ああ、私が失った、私のせいだ、私の大切な人を…こういうことをやっておられますでしょう。』まさしくその通りです。
加えて『訳が違う』これは考えたことがなかったので驚きました!
他の訳も読んでもっと勉強してみたくなりました。
丁寧な回答ありがとうございました。
心が軽くなりました。
古川玄峰様
回答ありがとうございました。
回向という考え方があることを知り、祈りや想いが形となって届くとすると写経も素直に書くことができます。
内容を理解したい想いが強かったのですが、そんなに簡単に理解できるはずもなく
難しく考えずにただ供養の気持ちを届けるために書こうと思いました。
写経によって仏教に触れる機会を得たので
これからも勉強は続けていきたいです。
優しい回答をありがとうございました。
心が暖かくなりました。
百目鬼洋一様
回答ありがとうございました。
何度も何度も読み返しなんとなくですが理解できてきた気がします
「私の生であると同時に子供の生でもあるわけで、私の写経の功徳は、そのまま子供の功徳である」
「私と子供の生死に区別もない」
我見や空の考え方は納得できましたが、私の生と子供の生が同じなら子供の死は私の死でもあると感じ、より悲しみが増してしまいました。
まだまだ①にも達しておらず正しく理解ができていないようなので、これからも精進してまいります。
丁寧な回答ありがとうございました。
井上大道様
回答ありがとうございました。
般若心経に色々な訳し方があることはうっすらと知っていましたが、きちんと読んだことがあるのは写経の時のお手本だけでした。
井上様の解釈はシンプルでわかりやすかったです。
もっともっと深く知りたくなりました。
これからも功徳を積み精進してまいります。
ありがとうございました。



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