骨の拾い方の東西の違いをどう飲み込めば回答受付中
世界にはいろいろな風習があるのと同様に、人が亡くなって焼き場で骨を拾う際、日本の東では一粒残らず灰を骨壺に収める一方で、西では骨や灰の大半の処分を焼き場に委ねますよね。
私は長年生きてきて、日本の東でも西でも、焼き場で縁者の骨を自然と拾ってきました。むしろ不思議と、東西の違いに気づいてすらいませんでした。
ところが数年前、東京で縁者の骨を拾って間もなく、名古屋でも別の縁者の骨を拾った時に、無意識にショックを受けてしまったようで、いまだにそれを思い出してあれこれ考えてしまいます。
たしかに、この時は東京で係員が丁寧に丁寧に灰を集めてくださる様子を見ながら、その動きひとつひとつに私が思いを込めてしまったような気がします。一方で、名古屋では骨の大半に別れを告げる旨を、焼き場で初めて知らされた印象があり、驚いてしまったのだと思います。
そこでご相談なのですが、この気持ちをどう処理したらいいのでしょう? たしかに、インドではすべてをガンジス川に流してしまうと聞いていますので、名古屋の手法がむしろ理に適っているのだと思います。しかし、ならばなぜ、東京ではあんなに丁寧に灰を拾うようになったのでしょう。また、ガンジス川に流せば行方が想像つきますが、灰を焼き場に委ねて、その灰の行方がわからなくなる怖さも拭えません。東西どちらの手法にも精神的に納得するにはどうしたらいいでしょう?
なお、名古屋の焼き場では「責任持って丁寧に処理」という主旨のことしか教えてもらえませんでした。また、法事があるたびにお坊さんにこの質問をしようと思うのですが、喪主でもない者が歩み出て長々と質問する勇気をどうしても持てません。ちなみに、親が檀家になっている寺で伺ったところ、悩み相談は受け付けていないとのことでした。
よろしくお願いします。
お坊さんからの回答 2件
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習慣の違いに愚僧も驚く
ご質問ありがとうございます。
お気持ち、よく分かる気がします。
実は愚僧も、関東から名古屋のお寺へ移った際、火葬後のお骨上げの違いに驚きました。
関東では7寸ほどの大きな骨壺にお骨をほぼ全て納める「総骨」が一般的です。一方、名古屋や関西では5寸程度の骨壺に主要なお骨のみを納めることが多く、残りは火葬場にお任せします。
どちらが正しいという話ではなく、長い年月の中で育まれてきた地域の習慣の違いなのでしょう。
関東では明治以降、全てのお骨を収める風習が広まりました。一方、関西には本山へ分骨する習慣もあり、お骨の一部をお参りの対象とする考え方が昔からありました。そのため、お骨を全て持ち帰らないことへの抵抗感も比較的少なかったのだと思います。
ただ、私はご質問を拝見していて、あなたが気にされているのは「お骨の量」ではないように感じました。
東京で丁寧に灰を集める職員の姿を見ながら、故人への思いを重ねておられたのでしょう。
だからこそ、名古屋で多くのお骨を残していくことに、心が追いつかなかったのではないでしょうか。
けれども、故人は骨壺の中だけにおられるわけではありません。
全てのお骨を持ち帰っても、ほんの一部を持ち帰っても、故人を偲ぶ心の尊さは変わりません。
仏教では、この身体は因縁によって仮に集まったものであり、やがて大地へ還っていくと説きます。
お骨がどこへ行くかよりも、故人を忘れず手を合わせる人がいることの方が、ずっと大切なことなのかもしれません。
残骨の行方については地域によって扱いが異なりますが、多くの火葬場では合同供養や合祀など、定められた方法で丁寧に取り扱われています。少なくとも粗末に捨てられるようなことではありません。
ですから、どうか安心してください。
そしてもう一つ。
「喪主でもないのに質問しづらい」と書かれていましたが、故人を想う気持ちに喪主も親族もありません。
疑問があれば、お坊さんに尋ねて構わないのです。
少なくとも愚僧は、そうして故人を想い続けておられる方からのお話を聞くのは嬉しいことですよ。
合掌
実例その①として
ご相談ありがとうございます。
全ての自治体が同じような最終処理を施しているかどうかはわからず確認を要しますが、我がまち浜松市では、除けた骨の屑はまとめて合葬墓に合同で埋葬していると聞きます。丁寧かつ適切な手続きでもってご対応をいただいております。
ですので、おそらく仰るところの西日本のどこかにおいても、そのようなご対応に準じた処理をしていただけているものと存じます。
この度のご心配を、ある程度解消できたかどうかわかりませんが、少しでもご安心をいただけたら幸いでございます。合掌。
質問者からのお礼
早々に物理面でのご回答をありがとうございます。参考にいたします。
三浦康昭様、ご回答をありがとうございます。なぜかストンときました。
「本山」と伺って、「分けることは信じて委ねることだし、すべて引き受けるのも美しい責任」と思えた気がします。
なお、火葬場のために申しますと、もちろん遺骨や灰が粗末に扱われると思っているわけではありません。ただ、その時はきっと、「もうしばらく持っていていいと思い込んでいた物」あるいは「もうしばらく一緒にいると思い込んでいた人」を不意に知らないところへ奪われた感覚を持ってしまったのだと思います。
ご回答を拝読して、その「物/人/魂」が別の方向へ行きたかったのだと思えば、すんなりと委ねられるのだと気づきました。「ずっと同じ電車ね。いや、あっちのホームに来た電車に乗り換えたほうがあなたには好都合なの? なら、ここで。あなたがどこの駅で降りるのか知らないけれど、またクラウドで会おう」みたいな?
なお、「喪主でもないのに」というのは、お坊さんに対する遠慮ではなく、ほかの親族の手前、ただでさえ日頃から空気読めないヤツだと言われているズケズケした私が“お嬢さん、おはいんなさい”を巧くできないというだけなのですが、僧侶の皆さまは仰るようなお気持ちでいらっしゃると信じて、いつかお話してみたいと思います。
皆さまのおかげで今日は温かい気持ちで眠れそうです。


