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不来迎について回答受付中

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浄土真宗の方に質問失礼いたします。

浄土真宗の教えに「不来迎」というものを知りました。平生業成すれば来迎を待つ必要がないとの事ですが、これは来迎そのものがないという事でしょうか?
浄土真宗では、阿弥陀如来は法身であると聞きました。であるとするならば、やはり阿弥陀如来が姿を表して迎えに来てくださる事はないのでしょうか?
気付いたら極楽に往生していた、という感じでしょうか?

2026年6月18日 11:37
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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

臨終まつことなし、来迎たのむことなし

よくお勉強なされていますね…💚。
親鸞聖人はお手紙の中で、❝真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるときに、往生はさだまるなり❞―いわゆる【現生正定聚不退】―とおっしゃっておられます。それを、後の学者が「平生業成」と言い表したのです。

〈阿弥陀如来は法身である〉と聞いておられるようですが…これが難しいのです。親鸞聖人は別のお書物で❝法身は色もなし、形もましまさず。しかればこころもおよばれず、言葉もたえたり❞と著され、「理解・想像も出来ない」―いわゆる、不可思議というのですが―ともおっしゃっています。要するに、我々人間には、いくら考えても、到底分からないということでしょう・・・💦。
とにかく、名号(南旡阿弥陀仏)の不思議=【摂取不捨の力】を信じて、ともにお念仏申しましょう、ということだけです。納得して頂けないかも知れませんが、とにかく「理屈・理論」ではないのです。
最後に、親鸞聖人は❝浄土にて、かならずかならず待ちまひらせ候べし❞ともおっしゃっておられますので、小生も死んだら極楽浄土でお会い出来ると信じて、お念仏申しております・・・😅。あなたも、それを信じて、一緒にお念仏申しましょう。合掌 南旡阿弥陀仏

2026年6月19日 9:35
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有り難し
おきもち

仏教の面白いところ

ご質問いただきありがとうございます。

仏教を勉強されているとのこと。私も浄土真宗の僧侶ではありませんので、宗学的な解説ではなく、一仏教徒としての理解を書かせていただきます。

まず「不来迎(ふらいごう)」という言葉ですが、
簡単に言えば、「死ぬ時に阿弥陀さまのお迎えを待たなくても大丈夫ですよ」
という意味として理解しています。

昔から仏教では、亡くなる時に阿弥陀如来がお迎えに来てくださり、そのまま極楽浄土へ導いてくださるという信仰がありました。

そのため、「臨終の時に正しく念仏できるだろうか」
「阿弥陀さまは迎えに来てくださるだろうか」
という不安を持つ人もおられました。

しかし親鸞聖人は、「救われるかどうかは死ぬ時ではなく、生きている今すでに決まっている」と受け取られました。

ですから、「お迎えが来るか来ないか」を心配する必要がないのです。
これが「不来迎」の背景にある考え方だと思います。

ここからは私個人の理解になります。
仏教には、
文字通りに受け取る世界と、
象徴として受け取る世界があります。

例えば、
阿弥陀さまがお迎えに来るという話を、
本当に姿を現して迎えに来ると受け取る人もいます。

一方で、阿弥陀さまの慈悲に包まれて浄土へ導かれることを、
「お迎え」という言葉で表していると受け取る人もいます。

どちらが正しいと簡単に言えるものではないでしょう。
私自身は、仏教の教えは死後の説明だけではなく、
今をどう生きるかを教えているものだと思っています。

ですから、来迎があるかないかを考えることも大切ですが、

それ以上に、なぜ親鸞聖人が「来迎を待たなくてもよい」と説かれたのか。
そこに目を向けると面白いように思います。
それは、人間が最後の最後まで不安を抱える存在だからです。
「ちゃんと死ねるだろうか」
「ちゃんと信仰できるだろうか」
そんな不安すら抱えたままでも、阿弥陀さまは見捨てない。
その安心感を伝えたかったのではないでしょうか?

ただ私には、「死んでから救われる」というより、
「今すでに救われていることに気づく教え」
という印象の方が強くあります。

宗派が違うと表現も考え方も違いますが、その違いを学んでいくと、それぞれの宗派が何を大切にしているのかが見えてきます。

仏教の面白いところですね。

2026年6月19日 8:33
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有り難し
おきもち

山の中の小さなお寺の住職と児童福祉施設で働いております。 毎日いろんな出来事がありますが、そのたびに、「仏教って、生きる力そのものなんだなぁ」と感じる瞬間があります。 ハスノハを始めたのは、友人の僧侶が青空説法で、人の悩みにまっすぐ寄り添っている姿を見たのがきっかけでした。 「自分にも、こんなふうに誰かの心に光を届けることができないだろうか」 そんな思いから、この場に身を置かせてもらっています。

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